「写心」 法学部一年 稲葉浩輝

 「優しい。」私が高校の頃に趣味で撮っていた肖像写真を、大学の友人に見せると、左様に評してくれました。

 私と写真との付き合いは、かれこれ十年程でしょうか。私がまだ小学生三年生だった頃、東北に住む母方の実家へ遊びに行った時の話です。祖父の部屋に置かれていた鉄の塊を見た瞬間、興味を惹かれました。武骨な造形、数多の不可解な記号、攻撃的なフォルム。それは、一眼レフカメラでした。祖父からその一眼レフカメラを譲り受けてから、写真を趣味とし、日々散歩をしながら日常の風景を切り取ってきました。私にとって、写真は人生の一部と言っても過言ではありません。

 より本格的に写真を始めたのは高校に入ってからでした。ウェットプロセスを覚えたのです。これは、フイルムの現像、印画紙への焼き付けを暗室の中で薬品を使いながら行う手法のことです。デジタルよりも手間が掛かるものの、この手法で作り出す画は実に階調豊かで、表現の幅が広いのです。

 高校でニュージーランドにホームステイ留学していた私は、朝はカメラバッグを持って時間ギリギリで登校し、放課後は学校の周辺を彷徨しながら見知らぬ人に声を掛けては、笑顔を撮らせてもらっておりました。学校から海岸までは、坂を下って十五分程度の距離で、非常に恵まれた環境でした。この頃は、何かに取り憑かれたかのようにカメラを持ち歩いては、シャッターボタンを押し続けていました。三人乗りの自転車に乗る若者たち、砂浜にうつ伏せで日向ぼっこをする子供たち、泣き止まぬ赤子を幸せそうに抱きかかえるお母さん。当時の私にとって、全ての人が輝いているように見えたものでした。被写体をカメラに静かに納めたら、高校の暗室に篭って現像作業を何時間でもやっておりました。

 その頃に撮った写真の数々を、冒頭にあるように友人に見せてみたのです。これへの論評が「優しい。」でした。続いて「まるで優しさに飢えてるみたい」、そう彼は言ったのです。この瞬間に確信しました。写真は人の心を素っ裸にすると。

 当時の私は、肖像写真を貪るように撮り続けていました。それは何故かといえば、自分が孤独を感じていたからだったと、今は思います。日本を離れ、言葉の通じぬ異邦人とだけ関わるその状況で、帰属するコミュニティーが見つからず、私は孤独だったのでしょう。それ故、言語的な対話を捨て、写真という表現−映像的な形象の対話−に閉じこもったのでしょう。その中で人と関わる分には、孤独から抜け出せたのです。だから、孤独を感じさせない、無邪気で暖かい笑顔を撮り続けました。

 孤独を脱しようとした結果としての笑顔の「写真」、そしてその孤独を脱しようとしている時の私の「心」。友人に、その「心」が伝わったことが、なんとなく嬉しかったものです。優しさを求める素直な感情に従って撮影をし、上に書いた七面倒なウェットプロセスを用いて出力した甲斐があったものです。私はこれら写真をコンテストに出品するつもりはありませんが、いつの日かは小さな個展でも開きたいと沁々思うのです。

 写真家のハービー・山口さんは、こんなことを仰っていました。「写真を撮る目的を一言で表すなら、それは、人々のこころをポジティブにすることだ。(中略)かつて、私は幼年期から少年期にかけての十数年間、腰椎カリエスという病気を患い、常に孤独と絶望を抱いてきた。落ちこぼれであった私は、生きていく中で社会や個々の人間が、時としていかに弱者に冷酷かを知らされた。そうした過去の結果、いつしか私は、何気ない穏やかな日常の光景や、人々の明るい笑顔、そして強く生きる姿に限りない憧れと美しさを見出すようになった。(中略)そして私は切に願うのだ、一枚の写真が多くの人々に希望を与え、いつの日か、この社会が今よりずっと優しくなることを。」(ハービー・山口「HOPE 空、青くなる。」講談社 2009年より引用)

 ハービー氏の写真を初めて見たときの感動は、今でも覚えています。そしてその後に、彼の自己言及的な話を聞いた時に、表現に対し畏敬の念を抱いたことは今後ずっと忘れることはないでしょう。

 アラーキーの愛称で知られる写真家、荒木経惟氏の写真集もその自己表現が凄まじいのです。特に「センチメンタルな旅・冬の旅」(新潮社 1991年)と「チロ愛死」(河出書房新社 2010年)の二冊は天才アラーキーの「愛」を感じることができ、大変気に入っているものであります。前者は、妻との新婚旅行と、妻の死を写真に記録したものであり、後者は、飼い猫のチロとの生活と、チロの死を写真に記録したものです。「チロ愛死」の後半は、空の写真が続きます。涙がこぼれぬように上を向いていたからこそ空という被写体が見つかったのでしょうか。「センチメンタルな旅・冬の旅」の表紙に、「これは、愛の賛歌であり、愛の鎮魂歌である。」とありましたが、言い得て妙。

 写真という表現を学び、何を表現したいのか、なぜそれを表現したいのか、それは自分に根ざしているか。この三つの問いかけが表現の要諦だと思うに至りました。写真家の人生は、写真機を買った時ではなく、撮りたい被写体を見つけた時に始まるのだと、どこかで聞いた覚えがあります。表現が対話だとすれば、その対象が見つかってこそ表現が始まるのです。そうだとすれば、私の写真人生は高校からでしょうか。

 人々が写真で表現をすることは素晴らしいのですが、惜しむらくは写真コンテストで入賞する為だけに撮られた写真が散見されることです。自己表現という目的を逸してしまった写真は、ただの権威への羨望しか感じ取ることができません。それは自己から、写真が離れてしまっているのです。「なぜ、シャッターを押したのか。」この問いへの答えは直感的、自己言及的であって欲しいものです。 

 遊ぶ子どもの笑顔なんてものは、写真コンテストで審査する叔父様方に受けが大変よろしいものですから、よく被写体になります。しかし、表現は心を素っ裸にするということを自覚しなければなりません。絵画でもそうですし、音楽でもそうでしょう。入賞目的の表現は、もはや自己満足でしかありません。自己の満足感も勿論大事ですが、そんな表現は、記録には残ったとしても、いつの日かは人々の記憶からは消えていくのでしょう。

 雄弁会の門を叩いてから早九ヶ月、あと小半年過ぎれば先輩になる程の時が過ぎましたが、つくづく思うのは、弁論と写真は同じだということです。

 弁論も写真のように、手間をかければかける程表現の幅は広がりますし、その手間は聴衆に伝わるものです。また弁論も写真と同様、心が素っ裸になる表現方法です。我々学生にとって弁論とは、社会変革論の一つの実践です。私たちは、社会の中での自己であり、自分が何を思い弁論をするのか、何に怒りを覚えるのか、これらが伝わる、自己表現と言うに相応しい、記憶に残る弁論を私はしたいと強く思っています。

 写真家の人生が被写体を見つけた時に始まるとしたら、学生弁士の人生は、問題意識を見つけた時に始まると言えるでしょう。雄弁会に入会したら学生弁士になる訳ではありません。雄弁会におらずとも、問題意識を解決するために声を上げる覚悟を持つものは、学生弁士といえるでしょう。

 数多くの弁論を聞く中で、記録に残らずとも記憶に残る弁論はありましたし、記録に残っても記憶に残らない弁論がありました。ここで記録に残ることを否定している訳ではありません。表現とは、相手の心と、自己の心の対話の手段です。だからこそ、記録だけを考えても、煩悩しか感じ取れませんし、表現としての本質から逸れてしまう。これは同時に表現における個性の喪失でもあります。学生弁士なんですから、まず前提に、どんなに否定され批判されようが、振れぬような情熱を持ち、その情熱の発露たる弁論をするべきだと私は思います。

 記憶に残る表現とは、感情の発露たる弁論であり、爆発たる弁論でしょう。問題を解決したいという熱い思いがあるからこそ、弁論するのであって、その思いは個性の発露でありますから。それだけ特異なものでしょうし、記憶にも残りやすいものです。

「雄弁とは感激にあり、感激のあるところ雄弁あり、感激なからずんば雄弁なし。」大隈老候はこの言葉を残されたのでありますが、私はこの言葉を常に意識して弁論をしてきました。実際にどこまで感激をもたらすことができたかは計り得ぬ訳ですが、この言から目を背けずに、日々自己批判を重ねることが私の覚悟であり、唯一確かなことです。

 自己表現をすれば必ず心は見透かされます。弁論は、言葉の選択、声の調子、表情といった多様な情報を用いて、弁士の心を丸裸にします。弁論は人格の発露であるわけですから。従って、自己表現はそれだけ怖いものとも言えるでしょう。しかしその怖れを乗り越える覚悟、情熱をもった上で弁論をすることこそが、我々に求められているのではないでしょうか。

 「私は何を伝えたいのか。なぜ私は弁論をするのか。それは私にしか言えないことか。」  この疑問を自らに問い続けることを忘れてはなりません。この三つの問い掛けを忘れたら、「裸の王様」になる…? そして、その時にあなたの赤裸裸な姿を見て、「王様は裸だよ!」と叫ぶものは果たして居るのだろうか…? 

 もしかして、私も貴方も、すでに裸の王様かも…?