「素敵な贈り物」法学部一年 保浦誠也

 私は雄弁会に入会してから約9か月間、本を読み、文章を書き、話すといった行為を繰り返してきた。読書、執筆、議論。このような知的営みに共通するものとは何か。
 まさしくそれは「思考」ではないだろうか。私はこのコラムにおいて、「思考」について検討したい。

 人間は何を思考するのか。まずはこのことについて検討する。
私たちは時に、自分たちの一生について考えたり、ひとつの出来事に反応して思考をめぐらす。様々なテーマが人間の思考の対象となりうるのである。前者のような、自分の一生にかかわるテーマなど規模の大きなテーマを長期的なテーマ、そして後者のような、ひとつひとつの出来事などを短期的なテーマ。私はこのように、思考の対象テーマを時間のレベルでとらえたい。
長期的なテーマは、非常に長い時間を思考に費やすこととなる。また、いつ結論が出るかわからないし、そもそも答えが存在するのかすら怪しい。そこで、「答えなんてでなくてもいいや」と思ってしまうとその時点で思考は停止する。したがって、答えは存在するのだと信じ続けなければならない。とはいっても、いきなり長期の問いの答えを出すことは難しい。
一方、短期的なテーマの場合は、ある出来事や事柄を扱うため、答えを出すことは比較的簡単ではないだろうか。しかし、短期のテーマというと、たまたま思いついたことやどうでもいいようなことではない。短期的なテーマは必ず長期的なテーマとつながっているのである。どういうことか。具体例を出して説明する。
赤坂真理の『東京プリズン』(河出書房、2012)をご存じだろうか。例えば、『東京プリズン』の評判を聞き、自分も読んで刺激を受け、何か言いたくなる。このようになるのは、おそらく自分の中の長期的なテーマと『東京プリズン』とが共鳴しているからではないだろうか。『東京プリズン』自体について思考することは決して自分の一生について思考しているわけではない。しかし、自分の中で長い時間答えが出ていない問いに詰め寄るための一助にはなっているはずである。短期的なテーマと長期的なテーマはこのような関係にあるのだと私は思う。一生のテーマを持ち合わせていれば、それとの関係がある様々な問いがおのずと自分の興味の対象となる。そしてそれらの問いひとつひとつに答えを出していくことが一生のテーマの結論につながるのである。


以上が、思考に関する1点目の考察である。つぎに2点目に、私たちはいつ思考するのだろうか、それについて検討したい。
そもそも、思考することは義務ではない。思考することを面倒だと感じる人もいるだろう。ではこう考えてはどうだろうか。人間は、「思考せざるをえない」のだと。
あるショックを受けた時、人は思考しないではいられない。持ち合わせている知識でそのショックに対処できない時、人は思考を強いられるのである。この外部からのショックを、哲学者ジル・ドゥルーズは「敵」や「不法侵入」に喩えている。
私たちは読書をしたり他人と議論することで、外部からのショックを受ける、つまり「不法侵入」を受け、このとき思考をし始めるのである。

以上の2点が、思考についての検討である。
しかしながら、思考とはそれほどネガティブに解釈されてよいものだろうか。「敵」「不法侵入」という喩え方は明らかにネガティブである。むしろ、読書や議論を通してショックを受け、短期的なテーマを発見し、それが自らの一生の問いの解決に少しでも貢献したのであれば、そのショックは歓迎すべきものではないだろうか。

ハイデガーは次のように言った。

「考えるということは贈り物である。」

考える。そして思考の先に答えがあれば、それは幸せ以外の何物でもないと、私は思う。