"Don’t feel, think" 教育学部二年 山口宇彦

 1970年、大阪で開催された万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」であった。高度経済成長の中で日本人が抱いた、科学技術の発達が人類のすべての課題を解決し、平和で繁栄した社会を作ることができるという、前向きで希望に満ちた未来予測がこのテーマには込められていた。ではその万博から40年以上経ち、「人類の進歩と調和」は実現しただろうか。
 現実は遠いと言わざるを得ないだろう。世界中でテロ組織が暗躍し我々の生活は常に脅かされる時代となっている。天井知らずだった経済成長にも限界が見え、持てるものと持たざる者の格差は広がる一方である。先進国ではアメリカ大統領選におけるトランプ候補の躍進やフランスの国民戦線の台頭など、ナショナリズムが吹き荒れている。さらに地球規模では環境破壊が深刻な問題となり、人類の種の存続すら問われる事態となっている。科学技術の発展によって人類の問題が解決され平和で繁栄した社会を作りあげるという、1970年に日本人が抱いた崇高な理想は、消えてしまったかのようにみえる。この状況を前にして、社会を変えたいという志を持つ若者はどうすればよいのだろうか。私たち雄弁会の会員たちもそれぞれの志を抱き日々の活動をしているが、混迷極める社会を前にして、その志がくじかれそうな思いをするのも事実である。解決すべき課題の多さ、そのハードルの高さ、将来予測の困難さに、無力感を感じざるを得ないのである。
 おそらく雄弁会以外の、社会を変えたいと大志を抱く人、そしてそうでない人も社会の混迷を増す様に、無気力さを感じ、時に目を背けたくもなるだろう。何せ明確な正解を見出すことが出来ないのだし、既存の権力は問題に対し何ら抜本的な解決策を打てないように見えるのだから。しかしここで重要なのは解決できるかできないかはともかく、とにかく関心を向け続け、考え続けることしかないのだ。もし無力感のまま社会と向き合えば、私たちはしばしば投げやりな解決策を選びがちになる。かつて世界恐慌の混乱を前に、ドイツやイタリアは、独裁者に自ら身を委ねた。経営危機に陥った多くの企業は、自らの手による解決を先送りとして粉飾決算をはじめとした不正による危機の先送りを図った。その結末がどうだったかは語るべくもないだろう。私たちが問題解決を避け、何かウルトラC的なものに解決を委ねようとしたとき、悲劇は起きるのである。
では、この時代、私たち一人一人は社会とどう向き合えばよいのだろうか。私はタイトルで述べたように「感じるのではなく、考える」ことが重要であるとしか言えない。映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーは「考えるな、感じろ。」という名言を残したが、現代社会と向き合い、意思決定するには「考える」ことがなによりも重要なのだ。「考える」とはつまり理性を持ち長期的な展望を持ったうえでの思索である。それをなくしては、私たちは、時代や組織の空気に気づけば流され、社会の誤った部分を見過ごし、将来的に自ら自身を滅ぼしてしまうのである。感情をなくせ、と言うつもりはないが、理性的側面を強化し続け、少しずつ変革を図ることしかできないのである。
今年は参議院選挙がある。今年は18歳以上に初めて選挙権が拡大される。将来的展望を持っている若者こそが、刹那的判断ではなく、長期的な視点での投票をして、政治に自らの意見を反映させていく必要があろう。