"Amor fati" 商学部二年 清水寛之

「人間の偉大さを言いあらわすためのわたしの慣用の言葉は運命愛である。何ごとも、それがいまあるあり方とは違ったあり方であれと思わぬこと、未来に対しても、過去に対しても、永遠全体にわたってけっして。必然的なことを耐え忍ぶだけではない、それを隠蔽もしないのだ」
ニーチェ『この人を見よ』

 哲学者ニーチェの著作『この人を見よ』の一節である。人間が永劫回帰の世界を肯定していくための在り方を述べたものであるとされる。ニーチェに限らず、一般に哲学の解釈や理解は個々人により多岐にわたる。また、哲学の意義を社会に対する批判を涵養し実践へと結びつけることに求めるならば、敢えて解釈の多様性を是としたいと思う。従って、本コラムでは私自身がこの言葉に感ずるところの意義を述べていきたい。
 では何故、この言葉に少なからぬ感銘を受け、筆を執ったのか。それは近年の政治や社会制度を始めとする様々な問題から、日常生活に至る多くの分野において虚無的な言説が蔓延しているように思われ、であるとするならばそれに問題意識を抱くからに他ならない。当然ながら、政治における期待度の低下などは近年に始まったことではないし、個々人の日常生活に何らかの「堕落」のようなものを見いだそうという意図は毛頭ない。何より、私などが他者の在り方について偉そうに語り得る資格や見識は全く有していないことも事実である。  
 ここで話を本題に戻したい。そもそも虚無とは何か。また、なぜ超克すべきなのか。一つ例をあげて述べたい。バブル崩壊より2010年頃までの時期は、日本社会では「失われた20年」という呼び方で表される。戦後の焦土から復興し高度経済成長期を経た日本が経済大国として君臨してから、バブルを機に不景気に陥り低迷を抜け出すことの出来なかった時代を端的に表した言葉だ。そしてこの一年か二年のうち、日本は「失われた30年を迎える」という言説が散見され始めている。勿論、西欧諸国を始めとする先進国は軒並み低成長時代に突入しており、人口や技術革新などの成長著しい発展途上国の現状に鑑みれば日本の努力如何などにはかかわらず、これまでの2,30年間の事態は当然の帰結であるように思われるし、これからも大きな成長などは望めないだろう。また、そもそも充分な物質的繁栄を手に入れた我が国が、これ以上の成長を望む必要があるかということについても議論は分かれる。しかし、私がここで問題に感ずるのは日本の現状そのものではない。「失われた」という否定的なニュアンスで私たちの遠からぬ過去や現在、そして未来を語り、負の烙印を押すことが我々を不幸にしてしまっているのではないかということだ。もはや生きていくことには困らず、日常の安全が脅かされることも無い私たちにとって(子どもの貧困や原発事故による安全神話の崩壊等の新しい問題に対して目を向けていかなければならないことは言うまでもないが)、右肩上がりの時代の価値観のまま現在を見つめ悲観するのではなく、新しい時代の到来を運命と捉え積極的に恩恵を享受しその時代を肯定していこうとする姿勢こそが我々に幸福を齎すのではないか。物は言いようと言うが、我々の置かれている状況もまた感じ方次第である。これは現実からの「逃げ」ではなく、寧ろ現実に向き合う「誠実さ」であると思う。
 最後に一つだけ、誤解の無いように付言しておきたい。私は全てをありのままに肯定し、ただ盲目的に生きるべきであると主張する意図はない。まして僭越ながらも社会変革を志さんとする立場である以上、それは絶対に肯定すべきではないだろう。私が述べてきた運命愛とは、今置かれた現実を見つめ、受け入れることである。しかし、「受け入れる」とは「諦める」こととは同義ではない。全ては「受け入れる」ことから「始まる」のだ。