「心」文化構想学部一年 酒井颯太

池袋でバイトをしていた頃、同僚にお笑い芸人をやっている人がいた。
まだ芸歴三年で、ショーレースに勝つために日夜、何もしない相方をよそに一人でネタ作りに勤しんでいるらしい。
ある日、バイト終わりに一緒に帰ったとき、彼が面白い話をしてくれた。
「笑いには、大きく二つの種類があるんだよ。ひとつはこいつアホだなって笑い。もうひとつは、共感による笑い。一発芸や体を張ったドッキリは前者で、面白い漫才やトークでは後者が多く使われるんだよ。あるあるネタなんかまさにそう」と。
これはなかなか面白い分析だ。
特に、二つ目の共感による笑い。
今まで私は笑いとは「与えるもの」だと考えていたが、よくよく思い出すと確かにその種の笑いは存在するように思える。
例えば、ある授業で先生が冗談で「リア充なんて爆発すればいいのにな」といって、教室が笑いにつつまれたことがあった。これは、まさに共感による笑いであると感じる。
私たちがリア充に対して普段抱いている感情と先生の言葉が「共鳴」したのだ。
このように自分が普段何気なく抱いている感情や経験を自分と関わりのない他人が言って、大笑いしている自分にふと気づくことは度々ある。
私たちは自分が普段自然に抱いている感情が他人によって言葉にされたとき、共感し、心を動かされるのだ。これは、何も笑いに限ったことではないと思う。感動にしろ、怒りにしろ、人の心はそれらを与えられるのではなく、自分が無意識に持っているものと共鳴させられることで大きく揺れ動くのだ。
ここで、弁論について考えてみたい。
私たち雄弁会は常に社会に対し当為論を弁論によって提起する。当為論の提起とは社会に対して、かくあるべし!と自分の意見・考えを主張することである。そして、これらを聴衆に訴え、説得をして初めて私たちの活動は意味を成すといえる。
この説得の際、最も重要なのは、自らの当為論を聴衆に「与える」のではなく、相手の心に「共鳴」させることだ。与えられたものは所詮他人のものだ。聞いている人が自分もその問題の内側にいると感じなければ弁論に価値はない。相手が無意識下ですでに抱いている感情に言葉を与え、心を共鳴させることで初めて本当の説得はなりたつだろう。
しかし、これはなかなか難しい。年月をかけ勉強し、自分の考えが強くなればなるほど、人はその考えを他人に押し付けがちだ。社会的に問題か、ロジックが通っているか、データは正確か。弁論を書いている時ついついそれらにばかり、気がいっている自分にふと気づく。
本当に大事なのは、相手が共感してくれるかどうかだ。そのためには、常に聞いている人々の立場を、気持ちを、把握しておかなければならない。個人に寄り添って初めて、社会変革はなされる。個人の視点を忘れたとき、弁論は死ぬ。

人の心を動かすことは、なかなか難しい。それは、自分の心をわかっているようでわかっていないからだと思う。自分の心を把握することは、相手の心を「共鳴」させる第一歩だ。だからこそ、笑ったとき感動した時、それが自分の何と「共鳴」したか、これを読まれた方にもぜひ自らの心を探って見てほしい。