「Where are the terrorists?」

政治経済学部2年 佐古田継太


「テロ」が人口に膾炙してからどれくらいになるだろうか。
テレビで新聞で、何気なく耳や目に入ってくる「テロ」。何だか得体の知れない、憂鬱でグレーなイメージをこの言葉は纏っている。だがこの「テロ」、一体何を指しているのだろうか。街中で「テロ警戒中」なんて大きく書いてある看板をここ平和な日本でも目にする機会が増えたが、一体全体何を警戒しているのか、首をかしげる人も少なくないのではないか。
そもそも、「テロ」って犯罪とどう違うのだろうか。
テロリストと犯罪者。彼らの差異は何だろうか。テロリストで犯罪者なのか。それとも、犯罪者でテロリストなのか。どちらか一方が上位あるのだろうか。
「テロ」も犯罪も、それが非合法な行為を指す言葉であることに変わりはない。
だが、この2つの言葉を並べてみると、不思議と顔が浮かぶのが「テロ」で、顔が浮かばないのが犯罪だ。「テロ」という言葉は、ビンラーディンやザルカーウィーなど特定の顔を連想させる。それに対して、犯罪は、特定の顔というよりはむしろ殺しや痴漢などの行為を想起させる。ビンラーディンもザルカーウィーも、国内法ないし国際法を犯す犯罪者には違いない。だが、彼らを“テロリスト”と呼んだその瞬間から、そこにはプラスアルファの何かが故意に付け加えられたように感じる。

チャールズ・タウンゼンドは、「テロ」の定義について、百を超える定義が提案されながら今なお合意が成立していないことを指摘する。彼は、その理由に、テロの定義が問題の当事者の一方が敵対者に対してレッテルを貼る行為だからとしている:
一言で言えばテロリズムがラベリングだからだ。テロリズムはあるひとつの行為とみなされるよりも、むしろ心理的状態を指していると言えよう。

「テロ」の定義が難しいのは、それが恐怖を呼び起こす表象であり、事象「それ自体」を直視することを妨げているからだと言う者もいる。鵜飼哲は、「テロ」を巡る言説の問題性を指摘する。
たしかに暴力的事態が突発すると人の心は恐慌を起こし,その事態の原因に眼を向けられなくなる。だが,「テロリズム」は学問用語というより一種の罵倒語であり,政治的背景を持った暴力を犯罪のコードに転写するための装置である。この言葉の濫用は悪魔払いの儀式に似ている,この言葉自体は何も教えてくれないのだから。したがって,この言葉を目にしたら,それがそのつどどんな問題を際しているのかを考えてみなければならない。

なるほど。では、テロリストの主張に耳を傾けてみる。
「私は最後の手段としてテロリズムに訴えているのだ。というのも、他の奴が私よりもさらにテロリスティックだからだ。私は自己防衛、反撃をしているのだ。真のテロリスト、最も悪しきテロリストは、私からテロ以外のあらゆる応答手段を奪っておいて、そして先に攻撃してきたにもかかわらず被害者面をする奴なのだ!」