「記憶の棘」政治経済学部二年 高橋美有

パリが未曾有のテロに襲われた11月14日は、私の誕生日でもあった。
朝、起きると、緊迫感のあるパリの様子や響き渡る銃声音を伝えるニュースが目に入り、誕生日特有の幸せな気持ちは一掃された。私のTwitterには、「私は無事です」「人を殺さなければならない理由が分からない」「テロ怖すぎ」といった張りつめたツイートが溢れた。しかし、その緊張感は一日中続くことはなかった。私は、パリの深刻な様子を頭の片隅で意識しながらも、夜になると、友達と美味しいお酒やケーキを楽しんでしまっていた。テーブルの上に置かれた誕生日を祝うオルゴールの音色に耳を傾けながら、こんなことを考えていた。

私たちがこの目で見、耳で聞き、手で触れられる範囲は限られている。どれほど技術が発達しても、私たちが生活している範囲は地球上のごく小さな部分に限られている。私たちは、生まれた土地の慣習や周囲の人々と親しみながら、世界を見る目を養ってしまっている。親友の気持ちを推し量るように、世界の裏側の貧しい子どもの感情に思いを巡らすことは出来ない。兄弟の身を慮るように、海を隔てた国に住む人々の命を心配することは出来ない。これは身近な世界を美しく彩ることであると同時に、とても悲しいことなのではないだろうか。

今年9月、安全保障関連法が可決された。この法律によって、日本と存立が脅かされる存立危機事態や日本が攻撃される蓋然性が高い重要影響事態において、自衛隊が海外において活動できる範囲が拡大された。確かにこの安全保障関連法、集団的自衛権違憲であると思う。そもそも、自衛隊自体が限りなく違憲に違い存在であると思う。陸海空軍その他の戦力を保持しないという条文通りに読めば、自衛隊のような実力組織は本来持てないはずである。しかし、国家の国民の生命や財産を守ることは国家の役割であるのだから、それを果たすための自衛隊を否定することはない、という解釈によって自衛隊は許容されてきた。元来、憲法と事実にはひずみがあるけれども、それでもなお憲法が武力に頼らない平和構築を目指し続けることが、日本の武装化に歯止めをかけてきた。であるならば、問題は合憲か違憲かにはないのではないかと思う。もちろん、権力に抗って人々が法案廃止にむけて声をあげることにも大きな意義がある。しかし、本当に求められているのは廃止だろうか。国会の承認を経ずに自衛隊の海外派遣を認めている例外規定を撤廃するにとどめるだけでも良いのではないだろうか。あるいは、国民の過半数が安保法案に反対しても(読売新聞 9月21日朝刊)、自衛隊違憲の度合いを強める政府の強行を阻止できない政党制度、選挙体制に議論を移しても良いのではないだろうか。

日本は世界3位のGDP、世界9位の軍事費、世界トップレベルの自衛隊装備を有している。紛争の絶えないこの世界で、経済援助だけが日本に求められている役割で無いことは、湾岸戦争において、圧倒的な資金援助をしたにも関わらず、自衛隊を派遣しなかったために各国から日本が批判されたことからも分かる。それ以来、カンボジアでの平和維持活動を皮切りに、イラク南スーダンなどでインフラの整備や衛生環境の改善に尽力している。日本の自衛隊は現地の人々が厚く感謝されているという報告も多々寄せられている。日本の自衛隊が日本国外の人々をもっと幸せにする力があるのではないだろうか。

ジョセフ・ナイは、テロリズムは劇場のようなものであると著書の中で述べた。テロによる衝撃的な攻撃によって、たとえ一瞬であったとしても、私たちの認識世界は拡大したように思う。海を越えたパリ市民が得体の知れない武装集団を恐れたように私たちも爆破テロや銃撃戦を恐れた。人間の認識世界を広げることは不可能ではない。世界の裏側の貧しい人々の気持ちに真摯に思いをめぐらすことさえ不可能ではない。私たちの、認識世界は広がらないだろうか。広げなくてもいいのだろうか。世界有数の経済力、技術力、実力を有し、なによりも平和を望んでいる日本に住む、私たちは。