「言葉」文学部一年 杉田 純


やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。



これは、古今和歌集仮名序の冒頭にある文である。普段私たちが何気なく使っている「言葉」という単語は千年以上も昔から「言の葉」というかたちで使われ続けてきた。今回は、この「言葉」について書いていきたい。

 「言葉」の語源を調べてみると、元々は「こと」という単語であったものに軽い意味を持たせるために「端(は)」という一文字を加えたものであったらしい。当初は「言葉」「言羽」など数通りの表記があったが時代が進むにつれて「言葉」が定着したのだという。つまり、「葉」というものは最初から軽い意味合いを表現するために使われたということである。
 言葉というものはその名の通り本当に軽い、いや、時にはあまりにも軽すぎるものであると私は思っている。というのも、言葉で表現される人の感情はとてつもなく重いものであるからだ。たとえば、大災害を実際に体験した人は、その時見た光景や覚えた感情を言葉で表現し尽くすことができるであろうか。おそらく、どんなにリアリティーのある表現をしてもその人は自分の思いを表現しきれたとは思わないのではないだろうか。本当に心の芯から湧き上がってきたものは
伝えても伝えても満足はできないのではないだろうか。
 少々極端な例を出したが、もっと身近なところでもそういったことは多々あると思う。いじめられた時の苦しみを言葉にできるか?騙された時の悔しさを表現できるか?大切な人との死別を言い表せるか?自信を持ってうなずける人は少ないのではないであろうか。
 そう、人の思いとはとてつもなく重い、文字通り言葉にできないほど重いものなのだ(もちろん、上の例には挙げなかったポジティブな感情にも同じことが言える)。
 人の思いはそんな重いものであるからこそ、言葉はそれを表現するには軽すぎると感じるのである。きっと昔の人々も同じように感じて、「こと」に「は」を付け加えたのであろう。

 そう、言葉は軽いものである。だが、その軽さ故に人から人へと伝わりやすいともいえる。葉っぱが風に乗せられてどこまでも飛んでいけるように、言葉も軽いものであるからこそ感情を誰かに伝えやすくしているという面も大いにあると思う。だからこそ人はそんな軽い言葉というものを使い続けてきたのではないだろうか(現に私も今このコラムにおいて言葉で自分の考えをお伝えしている)。

 私たちは日々、言葉を使っている。それは自分自身に向けたものかもしれない。目の前の一人に向けられたものかもしれない。はたまた、目の前だけでない、もっと多くの人に向けたものかもしれない。いずれにせよ、言葉は誰かの思いを誰かに運ぶ。自分が言葉を使うとき、自分が言葉を目や耳にしたとき、その言葉に含まれているものはとても重いものであるということを常に忘れてはならない、それはないがしろにされてはならないと、私は思っている。