「セキュリティ、魔法の言葉」

政治経済学部2年 佐古田継太

冬休みを利用して、イスラエルパレスチナへ出かけてきた。

イスラエルパレスチナ問題を、イラク、およびその周辺地域で拡大するイスラーム主義運動の促進要素として位置づけ、現地入りしたわけだが、今回が初の実地調査ということもあり、刺激的な思考材料をさまざま得ることができた。FWの具体的な内容は他の機会に譲るとして、ここでは現代社会に埋め込まれたセキュリティという概念について考察してみたい。

イスラエルの空の窓・テルアビブ空港があるテルアビブに入ってまず驚かされたのが、街を闊歩する軍人の多さである。イスラエルには徴兵制がある。ユダヤ系とドゥルーズ系の若者は男女共に高校を卒業すると、イスラエル軍に服役する。男子は3年間、女子は2年間、将校クラスは4年間だ。周辺諸国と敵対しているイスラエルは、自国に対する軍事的脅威を現実のものとして認識しており、GDPに占める軍事支出の割合が極めて高い。SIPRI(ストックホルム国際平和研究所)の調査によると、イスラエルGDPに占める軍事支出は過去10年間、8%から9%を推移している。また、街にはセキュリティ・チェックが至るところにあり、デパートで買い物をするときも銀行でお金を下ろすときも、空港の出国手続きのような煩雑な荷物検査がある。イスラエル軍による2006年のレバノン侵攻や今も続く散発的なガザへの介入はわれわれの記憶に新しいが、レバノン国境やガザから遠く離れたここテルアビブの街でも、いびつな緊張感に覆われているというのが印象だった。

パレスチナ自治区に食い込む対テロ用の分離壁も、アラブ系イスラエル人に対する土地の使用権の剥奪も、イスラエル経済に埋め込まれた軍事産業の肥大化も、これら全てがセキュリティの名のもとにその存在意義が問われずに容認されている現状がある。さらに、この意味でのセキュリティはイスラエルの根本的な安全の保障を意味しないだろう。3億人のアラブ人と10億人のムスリムに囲まれたイスラエルの安全が、どうしてこれらの政策を継続することで保障されるだろうか。

対テロの名の下にセキュリティという言葉が社会に蔓延して久しい。セキュリティという言葉は、周知の通り(seから離れる・cura心配)を語源にしている。国家によるセキュリティは、国民生活の不安を取り除くことを本来の目的としているはずだ。その逆、すなわち国家によるセキュリティが国民生活を脅かすなんてことはあってはならないはずである。

セキュリティが本来の効果を発揮するために、必要とされているのは、対処療法的なアプローチに優先される根本的なアプローチである。今求められているのは、文化的背景を異にする人々を引き離す分断ではなく、共生を可能にする包摂なのである。