『幸せとは何か』  社会科学部1年 大嶽潤平

先日、全国各地で気温は30℃を超えた。街中では日笠が咲き乱れ、タオルで汗を拭う人々が目立つ。夏の匂いがする。夏独特の胸騒ぎがする。元高校球児の僕にとっては、自然と白いボールと泥だらけのユニフォームが思い出される。

こんなことを言っているが、僕は実際、野球をやっている時は野球が嫌だった。毎日毎日の練習。(雨よ降れ)と、祈りながら部活開始時間までの学校生活を過ごしていた。天気予報のチェックを怠ったことはなかった。練習休みとの吉報が入るとお祭り状態だった。それくらい野球が嫌だった。

しかし、今になって高校野球を思い出すと、苦しかった練習も含めて全てが、僕にとっての高校野球という存在が、キラキラしたものとなっているのだ。

幸せとは何かを考えてみる。
幸せの存在を感じる時は人それぞれあると思う。
僕の場合はそこにあったものがなくなって、その場所にそれが存在していた時、自分がどれだけ幸せだったかを感じる。
または、ある理想を求めてその理想状態に邁進している時、具体的には、好きな異性がいて、(あの子と付き合えたらどれだけ幸せだろうな)などと、妄想を膨らませる時である。

幸せとはそこにある時は気付きにくいものではないかと思う。僕の場合でいえば、野球なんて嫌だ嫌だと思い続けていた高校時代の日々や、憧れの早稲田大学に入学したのはいいものを、その生活に慣れてしまい、大した喜びも感じられない現在である。つまり、そこにある(あった)幸せを見つけることができない(できなかった)のだ。

つまり、今、大した幸せを感じられない日々をすごしていても、過去、未来へと視点を移すと、普通の日々だと思っている状態が幸せだったりするのだ。
だから僕はこの毎日の日常に幸せを感じたい。

また過去において幸せだと考えていた目標を達成しても、また自然と新たな目標が創出され、再び欲求不満状態が起こってくるものである。つまり欲望の連鎖が起こるのである。例えば、人々はより便利で快適な生活を目指してあらゆる発明をした。産業革命はその最たるものである。現在の世界と産業革命以前の世界では、どっちが快適で便利な世界かと聞かれれば、迷わず現在の世界といえるだろう。しかし、産業革命以前の世界に住んでいた人々が、現在生きている人々よりも幸せではなかったかと聞かれれば、そうではないだろう。つまり、人間はその置かれている状況によって幸せが変化するのだ。例えば、人間が狩猟、採集生活を営んでいたころは、久々にありつけた獲物を食べる瞬間が何よりも幸せであっただろう。

日々の暮らしが味気なく、退屈している人もいるかもしれない。また悲しみにくれている人もいるかもしれない。しかし、そこで、ただつまらないなと思ったり、投げやりになったりするだけでなく、(この生活って実は恵まれているんじゃないか)とか(失恋しちゃったけど、自分が大人になった時は笑い話になるかも)など、自分の今の生活に転がっている幸せを探すことができれば、靄がかかっていた視界が晴れるだろう。

「人生は短く見れば悲劇だが長く見れば喜劇である」という言葉でこのコラムの結びにしたいと思う。