「人生はライフカード」

社会科学部2年 中村翔

オダギリジョーが出ているライフカードのCMは、今僕の中で、最も印象深いCMだ。ある日突然オダギリに、他社からの引き抜きと起業の誘いと昇進の声が同時にかかり、オダギリが「転職したオレ」と「独立したオレ」と「昇進したオレ」という三つの人生をかけたカード選択を迫られるあのCMである。
〝人生はライフカード!カードの切り方で人生が決まる!〟

いやはや、反論の余地など全くない。まさしくその通りである。

社会学では、人生はよくゲームに例えられる。人間は不自由な存在であると同時に、自由な存在でもある。つまり、何の根拠もなくこの世に産み落とされた人間は、所与の条件(EX.国家、家族、美貌、身体、言語etc)は選べないという意味では不自由でも、その改変可能性がある(EX.移住、独立、整形、努力etc)という意味では自由でもある、ということである。おそらく人は、前者に満足していればいるほど自由を感じ、逆に満足していなければその分不自由さを感じるのではないだろうか。

こうした原理を考えていて、私の頭から離れなくなるのは経済ゲームである。

現在グローバル“競争”という言葉が流行りだが、言い換えるならこれはグローバルな経済ゲームである。競争と言っても、趣味のスポーツや部活動のように競争のレーンが選べるわけではないし、そもそもそのレーンに乗らない限り生の保証がないため、参加しないという選択肢(自由)など無いに等しい。こうした〝闘争〟社会では、人々は自己投資・人的資源の開発という名の経済的圧力に曝され、生き残るために経済的モノサシにおける意味での能動性と努力を要請される。それはもはや競争(レース)ではなく、〝闘争〟と呼んだほうがふさわしい。

私も三年になり就活が始まれば、目の前にいくつかの選択肢、ライフカードが提示されるのだろう。その時そのカードを見て、僕は何を思うのか・・・。

〝人生はライフカード!カードの切り方で人生が決まる!〟
 つまり、カードを切らないという選択肢はない。
今この日本社会で、一体どれほどの経済ゲームのプレイヤーが、目の前に現れたライフカードを前に活き活きと胸躍らせ闘えているのだろうか。