「一期一会」

商学部4年 柳毅一郎


 イマームホメイニ空港に着くとそこは別世界であった。まず目に付くのは頭にスカーフをかぶり、首まで覆っている女性だ。当然のことながらペルシャ語が飛び交っている。

 厳格なイスラーム教国であるイランでは、日常生活の中にもその教えが浸透している。


私は、小さいころインドネシアに住んでいたことのあったが、物心ついてからは始めての海外旅行であり、入国審査官と会話できるか内心不安に思っていると、見覚えがある人たちがいた。

 乗り換えで立ちよったモスクワで会話した二人組みだった。彼らは、私が乗り換えの手続きの際、何を言っているのか聞き取れず、後ろから「荷物ありますかって聞いていますよ」と日本語で教えてくれた人たちであった。その場は「ありがとう」といって去ったのだが、また再会するなど夢にも思わなかった。

 偶然再会したその人たちに「日本語わかるんですか」と聞くと、「私たちは日本に留学しているのです」とのことだ。一人は大学院に留学している在イランのアフガニスタン人のホセインさん、もう一人はイラン人で日本の大学に留学しているモハメッドさんだった。

 日本語と私のたどたどしい英語を交えながら、税関を待っている間、彼らと会話していると、どうやらホセインさんは二年ぶりの帰国らしく、家族が空港に出迎えている。本当にうれしそうに手を振るお父さんの顔がフェンス越しに見える。

 税関を抜けて、ホセインさんは家族、親戚一同と感動の再会。なぜか、私と今回旅行に誘っていただいた雄弁会の折本先輩ともども、携帯のムービーで撮られてしまった。

 「ホテルはどうするのか」とのホセインさんから問いに、我々は市内で探しますと答えた。到着した時間は現地時間で午前三時半。ペルシャ語ひとつ話せない我々を察してか、ホセインさんからひとつの提案。「もしよかったらうちにこない?」。

 「そんな・・いいんですか」とおもいながら二つ返事で「それではおじゃまさせていただきます」と遠慮なく、言ってしまった。失礼ながら、もし家族・親戚(女性・子供を含む)がいなかったら訝ったかもしれないが、不思議とホセインさん一家は信用できた。


 車に乗り込み、一時間半かけてテヘラン郊外のご自宅に着くなり、お母様より歓迎に頭に飴を投げてもらい、お香を振りかけてもらった。(投げてもらった飴をなめるといいことがあるらしい)ホセインさんが2年振りの帰国ということもあって、親戚一同大賑わい。家族・親戚ともどもから、紅茶飲みながら、凄まじい歓待を受け短い眠りについた。

 翌日、朝起きてから、朝食をいただき、こちらが何かしようという考えを抱くことを許さない位の親戚・友人・ご近所の人の嵐。空港で会ったばかりの素性の知れない観光客にこうまで愛想よく笑いかけていただくとはと思う程であった。幾分落ち着いた後、「いつまでもお世話になるわけにいかないので」と切り出すと。またしてもホセインさんからの提案。「二、三日はちょっと用があるのですが、それが終わったら一緒に観光しませんか」、とのことであった。

恐縮したが断る理由はなかった。「当分ご厄介になります!」


ホセイン一家は日本ではあまり見られなくなった6男1女の大家族である。さらに、既婚者はお嫁さんと子供を連れてきて、毎日、楽しい食卓を囲んでいる。一度、「今はホセインさんが帰国したからこんなに多くの人がきているのですか」と聞いたが、毎日こうだと言っていた。暗さは微塵も感じなかった。しかし、ソ連のアフガン侵攻時にアフガニスタンから移民してきたことや、ハザラ人というアフガニスタンでもマイノリティの部族であったことを考えると笑顔の裏に我々にはわからない苦労があったのだろう。


テレビは何を言っているかわからないが、衛星放送で、番組が色々見られるのがおもしろい。こちらは衛星放送ではないと思う?!が、日本以外にも、中国、韓国、インドなど幅広く放送している。よく一緒にテレビを見ていると、俳優が韓国人か中国人か日本人か聞かれた。

日本のものではおしんキャプテン翼がものすごく人気だったらしい。残念ながらおしんの方は、僕は話についていけなかった。「石崎!!」「立花!!」と言われビックリした。たしか、「赤ちゃんと僕」といったタイトルの日本のアニメが流れていたときはちょっとシュールに感じたりもした。

また、携帯電話がこんなに進んだ機能がついているのか、と失礼ながらにも思った。写メール、ムービーは当たり前にどの携帯にも付いている。メーカーはソニーエリクソンノキアだった。

そして皆さんイスラム教信者なので当然一日三度お祈りもする。イスラム教信者は朝寝坊しないのでは、と素朴に思った。面白かったのは、お祈りしている横でテレビが流れていたり、宿題をやっていたり、着うたを聞いていたり、意外と寛大なところだ。もっと物音ひとつ立てないのものかと思っていた。


やっぱりその土地の日常を見るのは面白い。


三日後テヘランにタクシーをチャーターし、出発。目に付くのは、トヨタニッサン、スズキ、ホンダ(バイク)、マツダコマツ(重機)、パナソニック、日立などのメーカーの名前だ。日本にいると気づかないが、こうまでいっぱい使用されているのを見ると本当に日本のメーカーは強いなと実感した。と同時に海外において日本の大きなプレゼンスとなっているのだなと感じた。

ちなみにイランは物凄い車社会だ。それなのに交通事情は信号が少なく、横断歩道も少ない。バンパーがなくなっている車もちらほら。一秒でも待たされるものならドライバーからクラクションが鳴る。空気も非常に悪く大気汚染は深刻であると感じた。その一方、料金は安く日本じゃ考えられない程タクシーに乗った。

また、街のいたるところ(テヘランに限らず)でホメイニ氏とハメイニ氏の顔のポスターが張り巡らされている。このことからも政教分離がなされていないことが見て取れた。ビルにはアメリカとの関係悪化もあって「DOWN THE US」との文字が書かれているものもあった。ホセインさん曰く、街頭でアメリカ国旗を焼いている人もいるそうだ。

また、女性も顔しか見えないが、わざとスカーフをずらし、髪を染めている部分を見せているところに女心を感じずにはいられなかった。ホセインさん曰く少なくない若者がアメリカに憧れているそうで、意外に感じられた。

日本に対する憧れもあるのかもしれない。私も粋のいいイラン人に「サムライって字を書いてくれ」と言われ「侍。サービスで武士」とまで書いてしまった。何に使用するかというと、刺青にするらしい。思わず苦笑いしてしまった。この辺は英語の意味がわからない日本人が英語のTシャツを着ていることと似ているかもしれない。


イランを見回して気づくのは「人が若い」ということだ。とにかく子供が多い。ホセイン一家もそうであったが両親はもちろん、おじ、おば、いとこみんなに可愛がられ、世話してもらい、怒られ、抱かれている。スキンシップも沢山。その上、親戚が集まれば子供が集まる。子供同士、一緒に遊び、喧嘩し、もう大騒ぎ。とにかく家族には恵まれている。

ふと日本を思い返し、兄弟は少なく、親とのスキンシップさえできない子供の顔が浮かんだ。モノが豊かでも子供までウツ病になってしまう日本の家庭を思わずにはいられない。   

今回の旅行での一番の成果はイラン・アフガニスタンの家族を見ることができたことと断言できる。


テヘラン観光を終え、今度はホセインさんの計らいで、空港であったもう一人モハメッドさんの家に夜行バスでいった。現地の大学生(モハメッドさんのお兄さんの友人)らとも仲良くなり、議論したことが記憶に残っている。

彼らに、「女性のスカーフや頭から足首まで体をすっぽり覆うチャードルといった黒い服についてどう思うか」と質問された。ちなみに現地の学生の答えは賛否分かれていた。

こちらも負けじと雄弁会の本義というべき議論をした。その中でも記憶に残っているのは「先進国も使用しているのにイランが核施設使用に対する非難はおかしい」という言葉だ。

また、第二次大戦や戦後の憲法体制を議論したうえで「もしアメリカとイランが戦争になったら日本はアメリカ側に日本はつくかもしれない」とのこちらの問いに、彼は「日本がアメリカに従わなければいけない理由はみんな知っている」との回答をした。

「イランとアメリカが戦争になったら僕はイランに帰ってくる」とのモハッメッドさんの言葉も印象深い。大学生一同、戦争になったら戦うといっていた。


良かれ悪かれ彼らは、日本人の同じ年代の人たちとは違う何かを持っていたと思う。イランでは男子は2年間の徴兵期間がありそれも関係しているのかもしれない。


そんなことを思いながら、テヘランに向け再び夜行バスに乗った。


ホセインさんのお宅に帰るやまたもや、歓待を受け、次の日は親戚の家で歓待を受け、次の日は友人の家で歓待を受けの日々が続いた。エレクトーンのリズムに合わせホセインさんのお父さんと一緒に踊ったり、日本の歌をリクエストされ「川の流れのように」を折本先輩が歌い、拍手喝さいをもらったりした。挙句には、親戚の法事にまで参加させていただいた。ここまでくると、死ぬほどもてなされたと言って良いほどだった。毎日食べていたら5キロも太ってしまった。

法事にて、現地のお坊さんを含め30人近くの男性の前で話す機会があり日本はいかなる国か質問攻めにあい、伝えることができたことも忘れられない。日本の宗教観、イランに対するイメージを聞かれ、特に高齢者問題、日本人のうつ病などのメンタルヘルス、について聞かれときには「イランにはない、もしくは顕在化していない問題なのに良く知っていらっしゃる」と思わず考えずにはいられなかった。 

 

 遅れながら、そもそもイランに渡航した理由はイランがアメリカに名指しで糾弾されるなか実際はどうなのか、この目で見たかったからである。


私の限られた体験だけでも「過激な宗教国家」の姿はなく、誰もが共感できるような「普通」の暮らしがそこにはあった。(ホセインさんはアフガニスタン人だが)そこには私たちがもしかすると抱いていた「頑迷イスラーム」のイメージはそこには微塵も無かった。現地の少年はブルース・リージャッキー・チェンの映画に憧れヌンチャクを振り回し腕白ぶりを発揮している。夜にはフットサルチームで汗を流す親戚の方もいる。現地の女性と話した際に、イランでは女性の方が大学進学率が高いことを知って驚いたりもした。

私たちが、イラン・アフガニスタンのイメージを聞かれた際に「多くの日本人が少なからず過激派のイメージがあるともう」と答えた際は、苦笑いを浮かべていた。現地の学生は質問も歓迎し、自己の文化的アイデンティティを大切しながら対話しようとしている姿が見て取れた。勿論ホセインさん一家も。


 別れの最後の日に「アフガニスタン人をめとらないか」とまでホセインさん一家からいわれた際には驚いてしまった。今度は家族を連れてきなといわれたときは心底うれしかった。

「百聞は一見にしかず」とはうまい言葉で、想像には限界がありやっぱり現実を見ないとわからない。


最後になるが、政治がどう変化しようとも、彼らに対する感謝だけは変わらないことを述べておきたい。

「ヘイリー・マムヌーン」(本当にありがとう)



本コラム(コラムの体裁をなしていないかもしれないが)は、私の体験をもとに記述しており偏りは否めないが、イラン・アフガニスタンのイメージを膨らます一助となればと思う。