『透明な国』 文化構想学部三年 岡粼綾修

昭和六十二年出生の小生にとって、実際に見聞してきた日本社会なるものは、まさに喪失の連続であった。幼い頃、豪邸の各部屋、便所、風呂を一々施工費用つきで紹介し、持ち主は借金を抱えていて豪邸の買い手を探している旨伝える番組を観た記憶がうっすら残っているが、今からするとバブル経済に咲いた徒花を持て余している世相を反映していたのだろう。
それから数年後、家具が次々と倒れる音で起きた阪神・淡路大震災では、高速道路が横倒しになり、ビルが軒並み傾き、住宅街が燃え上がる様を見せつけられ、自然を征服して創り上げられた人類文明の陣地たる大都会が、大自然の圧倒的力を前にして、あまりにもあっけなく崩れ落ちた事実に呆然とした。こうなると、目に見えるモノは誇るに足りない危うい存在であると考えざるを得ない。
さらにその僅か数カ月後、朝食の食卓で父が朝刊の一面を広げ、「歴史に残るからちゃんと覚えとけ」と言いながら見せたのは、言いつけ通り十七年以上経った今でも覚えている、地下鉄の出入り口と橙色の服を着た消防隊員の写真だった。続いてオウム真理教なる宗教集団が、当時小学生だった我々まで面白がって「ポアすんぞ」と言い出すほど話題になり、担任の教諭は「オウムを真面目に信じてはる人もおんねんから」とたしなめた。当時小生はつまりサリンを撒けるほど真面目なんじゃないかと反発したが、つまり理想の危険性、それに崇高なることも認識したとも謂えるだろう。
この担任教諭はオウム真理教の信仰を擁護する反面、日本国家に対してはバカに否定的であった。所謂自虐史観を小学一年生相手に得々として講義するのは勿論、事ある毎に「日本人はアホやから箸の上げ下げから全部中国韓国に教えてもらった」とのたまっていた。今から思い返しても東アジア反日武装戦線の親戚ではないかと感じるが、私はガンダムのような架空の「おもちゃ」を好まず、親父が作ってくれた海軍局地戦闘機紫電改のプラモデルに目を輝かせる「軍国少年」であり、相当睨まれた。特に一学年上のロシア人と日露戦争で勝ったのは何れかについて激論を交わし、しまいに殴り合いになったときには自己批判を迫られた。以後、図画の時間に戦艦大和を描く際には四十六糎砲から花火を発射させ、兵器の平和利用をアピールしていたが、おそらく原子力発電と発想が近いのではないか。
天皇陛下万歳はダメだ」と言われ続けるうちに、先の地下鉄サリン事件での麻原崇拝とも相まって、目に見えないモノに命を捧げる、或いはその為に命を奪うことについて関心が高まった。小学校三年生の夏休みは近所にある建て替えが終わったばかりの大阪市立中央図書館の三階にある新聞縮刷版閲覧室に通いつめ、自由研究として『戦意昂揚と大本営発表』なる稚拙な冊子を提出した。内容はよく覚えていないが、虚しさと憧れの同居した観点であったと思う。
新聞といえば、酒鬼薔薇聖斗事件の頃は、関係記事のスクラップ帳を作った。断っておくが、小生は惨殺死体の類を大の苦手としており、これは性的嗜好による行為ではない。神戸市須磨区の清潔で整然とした都市空間に生まれ育ったおとなしい少年が、何故凶行に奔ったのか、犯行声明中登場する「透明な存在」の意味するところは那辺にあるのか。興味が尽きずせっせと新聞記事を切り抜いていたが、母親からは気味悪がられた。
それから山一證券北海道拓殖銀行の破綻。「経済大国日本」はビシビシ音をたててひび割れていった。中学高校時期には小泉旋風で世は熱狂したが、非典型雇用の比率が急増したのもこの時期であった。産業構造の転換が主な要因であると考えられる為、この件に関して小泉施策を批判するつもりはないが、事実、サラリーマンの夫を専業主婦の妻が労い、子供も交えて一家四人揃って夕食をとる「普通の家庭」像は、急速にノスタルジーの対象へと変化していった時期であった。「既得権益を貪る特権階級」を鋭く批判し輿論の支持を得た「構造改革」は、皆が失った過去のよきものを未だに手放していない人々への怨念が為したるところに見える。
高校卒業後、あまりにも先行きが見えない祖国に留まり勉学するよりも寧ろ海外、それも東洋文明の起源にして当今国運の栄えること旭日昇天の勢いを見せる中国の空気を吸いたく、経済金融の中心たる上海に渡った。
地下鉄には全車両各ドアに液晶テレビが備え付けられニュースが流されている中、天秤棒で荷物を運ぶ払い下げ品とおぼしきヨレヨレの軍服を着たおっさん、ブルーシートの生地で出来た袋に鍋釜を突っ込んで次々と上海駅に降り立つ人々、祝日にガラス張りのデパートに下げられる「中国特色社会主義の強大な祖国を建設しよう」の垂れ幕、マーケットリサーチ会社で働いていた頃、歩合給込みで三日間に大卒サラリーマン初任給ほどの稼ぎをしながら辞めたバイトの子を見送りながら上司が、「これが上海だ」とつぶやいた一言。過去の日本にはあったと聞くが、今は見ることのできない風景、わけのわからない活気を感じ、身が震えた。
ある日書店で立ち読みをしていると売り場で寝転がり読みをしている奇人が、店員の苦情に対し「見かけだけを重視する今の世は危うい」と警句を吐いているのに出くわした。なんだこいつはと思いながら手に取った本は『我々の1960年代』という題だった。まえがきに曰く、「60年代を経た人にとって、この時代は言葉にし難く、まるでパスワードのないブラックボックスのようなものだ。そこにはたくさんの物語が詰まっている。(中略)我々に残っているのは、熱狂的な運動や、飢餓に関する記憶かもしれない・・・・・・」、本の中で語られているのは、要するにモノも自由もなかったが、全ては「革命のため」という崇高な目標を共有しており、確かな明るいものがあったというノスタルジーに埋め尽くされた内容だった。毛沢東によって推進された文化大革命中国共産党の決議でも公式に否定されているだけに、感じるところは小さくなかった。
仔細あって志半ばにして帰国し久しからずして大阪にもいたたまれなくなり、東京までやってきてからこれまでも、とんと良いニュースを聞かない。
GDP順位が中国に追いぬかれたのは人口上当然とも考えられるが、衝撃を以て我が国においては受け入れられた。先の大戦で敗れ、万邦無比の国体などといった国家のもたらす幻想を否定した我が国にとって「経済大国日本」の六字は、心の拠り所とも言えた。アジア一位、アメリカに次ぐ経済大国という地位は、大日本帝國と同じく過去となった。また同じく我々は、我が国を技術立国だと信じてきた。つい六年前には、世界の亀山モデルを標榜したシャープが液晶分野において圧倒的な国際シェアを誇り、日本経済衰えたりと謂えどものづくり大国の地位は揺るがない、我が国は職人の国だと見る向きもあった。それが今やどうなっているかは、ここであえて述べない。要は全て過ぎ去ったのだ。
先に小生が小学生の頃戦時中の新聞を読んだ際の観点を「虚しさと憧れ」と表現したが、まるで青春の血気にはやる若者を見る老人の目ではないか。
敗戦後、我々は戦前否定の中で、決して他に代わることのできない祖国日本とは何かについて問い直すことすらせず、戦争の危険をアメリカに任せ、或いは眼を背けて、目先の経済競争、技術競争の成果に拠り所を求めた。それに敗れた今、我々は如何にして祖国を語るべきか。如何にして存在を証明すべきか。
小生はここで戦前に回帰すべきと主張するつもりは、毛頭もない。ただ、経国済民の志を有し、況してや老人にあらず次代を担うべき青年ならば、絶対に考えねばならぬ題であると確信する。