「就労と私たち」文学部二年 新谷嘉徳

 今回のコラムにおいては今まで私が重視してきた就労について言及する。
 就労とは誰もが否応無く関わらなければならないことである。それは人間が社会と関わらざるを得ない状況に置かれているからこそであり就労とは社会と関わっていく手段である。社会と関わらなければ人は生きていくことが出来ない。もちろん、就労には人それぞれ様々な意味付けをすることが出来るだろう。例えば、自己実現、他者から認められるための手段、家族を養うための手段、自分が最低限の生活を営むための手段等である。そして何よりも重要なのは個々人の人生において就労する期間は長く、それぞれにとって大きなウエイトを占めているのである。このように就労は個々人にとって非常に重要であることが理解できる。

 しかし、仕事に就きたくても就けない失業者や路上生活を余儀無くされるホームレスといった就労という活動から排除された者たちが存在する。彼らはマイノリティーであることは間違いない。マイノリティーである彼らをある人は自己責任だから仕方ないという様に指摘することがある。しかし、私は少しこれに対して疑問である。その様なレッテル貼りはあまりにも浅はかではないのか、その様に感じるのである。マイノリティーはマイノリティーになるだけの要因があることに着目するべきである。それは彼らを取り巻く環境である。
例えば低所得者層の家庭で育ち充分な教育が受けられなかった→高校卒業と同時に就職活動→失敗し定職に就けなくフリーター生活→病気→ホームレスといったライフコースがあるとする。ここにおいての環境とは低所得層の家庭環境であり大きく人生を左右させたといっても過言ではない。そしてそれはある意味偶然性の強いものだと考える。大学に通っている大半の人は恵まれた環境で育っているだろう。大学に通えていること自体既に恵まれているといっても良いかもしれない。幼い頃から塾に通う、予備校に通う、家庭教師をつけてもらう等、それは家庭の金銭的な余裕がないと不可能である。一方でどの家庭に生まれるのか、裕福な家庭に生まれるのか、余裕のない家庭に生まれるのか、これは選ぶことが出来ないものであり偶然である。この偶然性が有る限り私は国家がこの差を出来るだけ埋めるべきであると考える。そして何よりも失業者やホームレスはその偶然性に左右されて失業した、路上に放り出された部分がある。特に教育環境については慎重になるべきだ。私がここにいるのも偶然性でしかないのだろう。幼い頃から塾へ通い、留学させてもらった。このような努力できる環境があったことにより大学までいくことができたと思う。本当に恵まれた環境であると感じるのである。
一方で対照的な存在が身近にいた。金銭的な問題で塾に通えない、アルバイトをしなければならない、勉強する時間がほとんどない、志望する大学にいくためのお金がないといった環境に置かれており最終的には大学にいくことなく現在ではフリーターを続けている。これはあくまで一例にしか過ぎないが、このような環境に置かれている人は彼だけではない。環境により最終的には自分が描いていた人生設計とは異なるライフコースを歩む人は多くいる。しかし、環境、特に教育おいてスタート地点に大きな差があることは不平等でしかない。この差は今後埋めていくべきである。就労に密接に繋がってくる教育。学歴社会とは競争社会である。この競争をする際にスタート地点が違えばもはや競争ですらないだろう。私は競争社会が悪であるといっているのではない。ただスタート地点に大きな差があると椅子取りゲームが成立しないということを言いたいのである。環境と偶然性、これらを考慮して国家がその差を埋める努力をしなければならないと考える。
 何度も繰り返すが就労は個々人にとって関わらざるを得ないものである以上、人それぞれには可能性があるからこそ平等な機会を構築しなければならないのである。最後まで読んで頂きありがとうございました。