「私の失恋記」法学部二年 高野馨太

 私はかつて防衛大学校を志望しておりました。端的に言って軍務に憧れたのでありました。受験期は今後予想される「腕立て伏せ用意!」や「駆け足、進め!」といった号令に備えて、毎日あらゆるトレーニングを行っておりました。八王子の実家近くにある高尾山を走って上り下りしたのも今ではいい思い出であります。日々の鍛練の成果によって、かつて弱々しかった私の体躯も、それなりにではありますが、たくましくなりました。日々、やがて来る怒涛の毎日を思って、また自らにかかる国防の責務のいかに重大なるかを思って、いうなれば「覚悟」を固めておりました。而して、毎日のように発症するストレス性の偏頭痛。それでもなお、只ひたすらに軍籍に身を置かんと欲したのであります。学科試験突破の後、面接、身体検査の二次試験において、果たせるかな、不合格となったのであります。俺は泣いただろうか。ただ茫然自失として、何ともいえぬ心境に至ったのは覚えております。当時の日記に記しております。「俺は国家に振られた」と。受験勉強を再開し、国立大学には落ちてしまいましたが、辛うじて早稲田大学に入学することが出来ました。
 ところで早稲田は私の一番好きな大学であったのです。早稲田大学の校歌、応援歌は高校の二年時から口ずさみ、早稲田祭では一般早大生に紛れて肩組んで歌っておりました。何か、高校生の私にも居心地のいいところでありました。楽しいところだろう、而してその楽しさに溺れてはならぬ、というような思いがあった。だから俺は一歩退いて対極なる青春の在り方を目指した。今やその愛おしくもあり、憎くもある早稲田に、気が付けばいる。何か、人生の悲哀とも言えるでしょうか。禁欲の果たされず、求めてはならずとした環境の中にいる私。ああ、人生よ、とため息をつくしか仕様もありませんでした。不思議なことに、防衛大学校に落ちてからは今輪際、偏頭痛の発作は消えてなくなったのであります。そんな自らの身体もほどほど憎らしい。周囲も、俺の身体も早稲田への進学を祝福している。
 かつての日記をつらつらとみてみますに、「自己克服」といった言葉がよくよく出て参ります。「俺は最も軍人らしからぬ男だ。だから俺は軍人になる。最も弱々しかった俺の自己克服の極地は最も軍人らしい男になることだ。『人は制服通りの人間になる』それもそうだ。ただ、俺は俺に軍服を着せたい。軍服が似合う男にしたい」このような思いがありました。
 自己克服とは、修養、修身であるとも思っておりました。その究極は、自らの生命を賭して職務を全うし、国家国民に奉公出来ること。あるいは大義ゆえの死であると。常に私の中にあったのは「果たして俺は死ねるのか」ということであります。その為の覚悟でありましょう。「臆病するな」と葉隠の山本常朝も私に語りかけてくるようでした。靖国の英霊も、また「後に続くものを信ず」と。日本国の為に身命賭して尽くしきれぬのならば彼らに申し訳が立たぬであろうとも思いました。
 思い上がりとナルシズムが立ち上がってくるたびに抑えようとしましたけれども、やはりそういった思いはあったでしょう。而して、皆々様に申し訳も立たぬという思いに駆られた夜々もありました。
 やはり私にとって、先の大戦は精神の核とも言えるほどの重みがあった。勿論、戦時の体験もなく、あるいは偏った見方かもしれない。ただ、故国を思い、死を前にして書き残した彼らの手記を見る。そして俺は疑似体験として彼らを知る。それが幼い頃からの蓄積となって生きている。
 ところで、河原宏著「日本人の『戦争』―古典と死生の間で―」を読みました。この本は河原がかの戦争の意味を自分なりに考察したものであります。その中で私が線を引いた個所を挙げてみます。
「人は現実の天皇大日本帝国のためには死ねない。しかしこの『母(原文は女扁に比)の国』を護るためには、退かず、降伏せず、死を決して戦った。それ以外に(中略)必至の戦場になお戦い続ける根拠はなかった」
「対空砲火に被弾して炎を引きながら、特攻機が一直線に空母めがけて急降下する時、敵の大軍に包囲された南の島から、死を前にした兵士がはるかに祖国を遠望する時、その瞼に浮かびあがる祖国とは実在の大日本帝国ではなく、今となった『遠い昔』の『母(同上)の国』の幻影だった」
「われわれの心と魂、したがって文化と歴史は深く帰本の欲求に満たされている。『本』への還帰、よみの国への憧れ、激しくそれを希求する荒ぶる魂、それらは歴史や社会の表層に現れぬ日本人の精神の底流にある」
 母の国、私もおよそそれと同じようなものを想念したことがありました。これもまた高校時代の数々の旅路の中に見出したものでした。知多半島に一人で行った時。伊勢湾の夕陽――遥か鈴鹿山脈にゆったりと赤々と沈んでいく――を眺めておりました。「波打ちよせてまた返す岩礁の只中に、俺は一人で寂しかった」悩ましい年頃でありました。「耐えよ。さもなくば押し潰されよ」何か、神々しい大地は俺に話しかけてきた。「温かな声だった。俺のことを見守ってくれているような、何か大地といえばよいか」
 沖縄本島を一人で縦断した時。北部やんばる地帯の東村から国頭村の峠を踏破し、ようよう行程にしてあと半日で北端の辺戸岬へ到着するかというところ、廃村となった集落がありました。東には太平洋の大海原が遥かに開けて西にはやんばるの急峻な山々が迫っている。那覇から最も遠い地区のことであります。
「展望台があった。そこに二人のうら若き男女があった。挨拶を交わした後、彼らは幼い二人の子どもを連れて、車で北の方向へ去って行った。辺戸を回って帰るのだろう。美しい男と女だった。女は色―大地の祝福―に恵まれ、男は見事な体躯を与えられていた。これが健康というものだろう」
「海岸に繰り出してみた。そこには静かな波揺に洗われる二つの巨岩があった。しめ縄に巻かれたその二つの巨岩は男女の性器を象徴しているようだった。あの男女がこの岩を拝んでいたのを思い出した」
「俺はこの土地に一時間もいなかった。だが、その場所で得たイメージはある一つの完成した瞬間として俺に訴えかけてきた。再び北端の辺戸岬を目指しながら、極限までの筋肉の疲労に苛まれていた俺には、『肉』という言葉がまず浮かんできた。次いで『性』、次いで『土』、次いで『国』であった。そこには古代的健康さがあったように思われる。俺はこの想念を東京へ持ち帰った」
「『肉』。この大地から生まれ出でし我。肉は痴け弾け、両『性』は混じり合い、再び『土』に種をまく。これが歴史だ。それが『国』だ。――あるいは祖国かもしれない」
 ここで私が想っているのは「母の国」ではなかろうかと思うのです。大地の想念は末広がりに広がって、かつてを想起させる。かつてとは、優しく温かな時代でありました。そこでは私のことを温かく迎え容れてくれる。
「俺は彼女に泣きついた。しがみついた、はたかれた。俺は赤子だからまた泣いた。彼女は俺のことを抱いてくれた。俺は親子が白色の光輝の中にやがて一つになるのが見えるような気がする」
 人は「帰本の欲求」があるのだと河原は言う。帰るべきはいずこか。すべての根源たる大地でありましょう。大地に脈々営々たる先祖の歴史でありましょう。かの国土に生まれ、育ってきた我々の先祖の偉大なる営為の数々は、大地の想念から慮られる。我々は我々が育まれたこの土の下へと帰っていくのでしょう。
 当初、この想念は私を非常に嫌悪させたものでありました。先に挙げた沖縄の旅路の行く先々で、住宅地裏の山の手に巨大な石造の建築物を目にしました。あるいはコンクリートの近代的な造りでもあり、あるいはいびつな草生す岩石の積み上げたものでもありました。これは何かと思って行程3日目、ようやくその荘重な建造物の正体が分かりました。これは沖縄式の墓でありました(後に聞きましたが風葬式の墓であるそうです)。その墓の土臭さに私は非常な反発感を覚えたのであります。死後は「土に帰る」、自らの血肉に蛆のたかる。回虫の類いが己の眼孔の辺りを這いずり回る。己が贓物は引き出され、巻き散らかされ、彼らはぶくぶくと肥えてゆく。
 やがてそういった「気味の悪さ」も受け容れるようになったのは不思議です。この大地へと帰ってゆきたい。むしろそう思うようにさえもなったのです。「火葬なんてちゃちなものよりも、土の中へこそ葬られたい」いつぞやの日記に記しておりました。
 大地へと帰ってゆきたい。この大地をこそ守りたい。以上のつらつらと述べてきた想念から、私は自衛隊という職務を選択しようと思ったのであります。祖国を守るという大なる使命のもと、私は大地、母の国に肯定してももらえよう。寂しい私の精一杯の願いでありました。あるいは、――草生す屍、水漬く屍。それでも、なお。
 翻って、現代人は高度に文明化した社会生活を享受しております。土の実感を失い、漂々と日々の生活を追い、暮らしているようにさえ思われてなりません。そのような現代人でさえも、やはり「帰本の欲求」があるのではないか。根源的に人はみな、己が帰りゆく「終の住処」を探しているのではないか。あるいは、しまいに己の全存在がすっぽりと心地よく収まるような「母の国」。己の全存在が派生したところ、したがって己の帰ってゆくところ。そんな思いが致します。
 長々とお読み頂いてありがとうございました。