「『憲法』考」政治経済学部二年 小林圭

 96条を筆頭に日本国憲法改正についての話題が世間を賑せている。先日も早稲田大学構内で憲法改正に反対するという旨のビラが配られていた。
憲法といえば主演のダニエル・デイ=ルイスアカデミー賞主演男優賞を獲得したスピルバーグ監督作品『リンカーン』という映画がある。この映画は、リンカーンが合衆国憲法修正13条(奴隷の廃止)を下院で通過させる過程を描いている。この映画で印象に残ったことはリンカーンが修正13条を通すために様々な手段を使っていたということである。例を2つほど挙げると、1つ目は民主党下院議員に対しての役職就任斡旋、2つ目は住民への利益提供によりその地区選出の下院議員へ圧力をかけるなどであった。奴隷制廃止という「綺麗な」大義の裏で「汚い」駆け引きが存在していたということだろう。このように一筋縄ではいかないのが憲法なのかもしれない。
翻って現代日本を見れば自由民主党をはじめとする様々な団体が改憲草案を発表したり、発表する準備をしたりしている。日本では1946年の大日本帝国憲法改正による日本国憲法の成立の1度しか改憲が行われていない。しかも、この1回は主権者の変更という統治システムの変更を行っている点で極めてイレギュラーな改憲であるといえる。(この改憲について宮沢俊義・尾高朝雄論争というものがある。興味のある方は両者の著書などを参考にして頂きたい)日本国憲法の施行から66年という年月が経ち、時代状況の変化により「新しい憲法」を求める国民のニーズも昔よりは増えてきている。改憲についての是非は別にしてもこの事実について異論を唱える人は少ないだろう。
しかし、大事なことはどのようなニーズが生まれてきているのかということを考えることである。現在の日本では主権者は「国民」であり、その国民がどのような国家の統治機構、権利、国是を求めているかを考えなければならない。憲法は為政者のみの意思に基づくものではなく、国民の意思に基づくものである。憲法改正を望むのであればその改正したい内容が国民のニーズであるのか考慮しなければならない。
そもそも近代憲法は「国家の構成・組織及び作用の基本に関する規範」を定め、「権力の濫用を抑止し、個人の権利・自由を擁護する」ための法典である。その前提がある以上、近代憲法は国家が国民を統制するためのものではない。この点を踏まえると自由民主党改憲草案102条1項「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という条文は近代憲法の理念を無視したものである。
この文章は特定の憲法改正草案や憲法改正自体の賛否を述べるためのものではない。しかし、改正論議が進むことにより改正の賛否のみに注目が集まり、近代憲法の意義や改正案の内容、憲法典の中での位置づけについての考察がなされなくなることに危惧を抱く。「時代状況」が要請するのであれば日本国憲法は改正される。要請されないのなら改正されない。ただの事象として捉えるならば憲法改正は行われるか、行われないかだけになってしまう。その内容によって私たちがどのような権利をもち、どのような義務を負い、どのような統治体制の中にいるのかが決まる。
最後につけ加えるならば、憲法の条文というのは単体では存在しない。その他の条文との関係によってその捉え方が変わってくることもある。ただ条文を単体として捉えるのではなく草案全体を「憲法典」として見ることが必要である。現在行われている憲法改正論争を見ていく上でこのことを常に前提として持ち続ける必要がある。
この文章を書くにあたり川岸令和ら『憲法 第3版』(青林書院)を参考にした。