「我々の思いあがりについて」政治経済学部二年 中村雄貴

 理論は現実から生じています。たとえそれが帰納法だろうと演繹法だろうと、その源泉は脳の中にはありません。現実にあります。であるならば、理論には自ずと限界が生じます。なぜなら、我々が理論の源泉としている現実の中で私が依拠している現実の量というのは世界の全体の中のごくごく一部でしかないからです。例示しましょう。これは『ブラック・スワン-不確実性とリスクの本質』で取り上げていた事例ですが、白鳥=白いという理論があったとして、次の白鳥が黒くないという保証はどこにもないという話です。

 現実における情報は散乱しています。ゆえに、我々がそれを集約することは不可能です。したがって、前述したように、社会科学の理論は、必ず抜け漏れが生じるものです。抜け漏れによって、予期せぬ結果が起こりその理論の失敗が明らかになるかもしれません。いずれにせよ、その可能性を排除することはできないのです。

 このことは、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者であり自由主義の泰斗、F.A.ハイエクが指摘したことです。(興味のある方は『経済学と知識』『法と立法と自由』『致命的な思いあがり』など参照してください)ハイエクはこの知識の分散性を根拠に市場擁護論、計画経済批判を展開しました。

 私がこのコラムを通じて述べたいのは、市場擁護論ではありません。このコラムのタイトルにおける「我々」とはまさに弁論関係者のことです。学生弁論に携わる人間の多くは、弁論を書く際に「理念-現状分析-原因分析-政策論」のフレームワークを基調とします。そして最終的に政策を打つことで理念実現を図る「政策弁論」が主流です。その中で特に重んじられるのが論理的一貫性です。

 しかし、ここにこそ先ほど述べた罠が潜んでいます。理論がその確からしさを示し得ないのと同様に、はたして論理はそれほど価値のあるものでしょうか。本当に、理念は達成されるのでしょうか。その弁論は、「致命的な思いあがり」ではないのでしょうか。政策弁論において罠に絡め取られている例を上げれば、試算に頼りきっている弁論、インセンティブを無視した弁論、論理的正当性のみを重視した弁論が挙げられます。これらに共通していることは、弁士本人が世界の情報を全て把握し、そしてこれからも把握できることを前提として弁論を行なっていることです。これこそが破滅の源です。

 では、学生弁論に携わる人間が志向すべきこととは何でしょうか。
 弁士は謙虚になりながらも、多くの情報を包含している物(歴史及び法の根拠など)に目を向け、広範に研究を行わなければなりません。歴史を学び、他国での実用の事例を調べ、現実社会に起きていることに目を向けるべきです。そして、現実化過程において起こるであろう変質にも目を向けるべきです。最後に一番大切なのは、「理念」の達成に目を向けることです。それが「真摯」に弁論を打つということです。あまりに無知である我々が弁論をできるのは、伝えるに足る熱情があり、演台に立たざるを得ないからです。だからこそ、無知な我々は演台に立ち、聴衆と議論をすることで知を広げなければならないのです。

 年度が終わりに近づき、私は4月から3年になります。弁論大会の運営・出場は2年以下が主体です。それでも、一つでも議論したくなる弁論が弁論大会に登場することを祈ってコラムを締めさせて頂きます。
「The curious tasks of economics is to demonstrate to men how little they really know about what they imagine they can design.-経済学の興味深い課題は我々が設計できると考えているものについて実際には人間は殆ど何も知らないということを人びとに論証することにある。」(ハイエク『致命的な思いあがり』)