「その一と時」社会科学部三年 平野真琴

鞄を開けたら、一冊目の読書ノートが背表紙を境に真っ二つになっていた。大学入学以来携帯し使い古していたもの故やむを得ないのであるが、これほど悲しいことはない。自分の過去が引き裂かれたような気持ちになった。更に困ったことには、背表紙の拘束を離れたページは鞄の中で掻き回されたようで、鉛筆書きの跡がこすれて読めなくなってしまったのである。記憶を頼りに字をなぞってみるものの、どうしても分からない箇所が散見されるのでもはやお手上げ状態である。自分の過去がかき消されたような気持ちになった。

さて、更なる悲劇を事前予防するために読書ノートのタイピング作業に勤しむ今日この頃であるが、本の題名を追っていくとだいたいそれを読んでいた頃に自分が何をしていたのかが思い返される。中にはどこで何をしながら読んでいたかを思い出せるものもある。これをこれからも書き続けていけば、死に際に読み返したときに自分の人生を振り返ることにもなろう。
 
人の人生というものは、切り取って語ることができるらしい。角田光代の『愛がなんだ』には、主人公・山田テル子が田中守に惹かれるあまり職や仲間を失ってしまう様が描かれている。28歳のテル子の、先にも続くであろう長い人生の中ではほんの一瞬の「人生」を200ページ余りに収めている。彼女の人生の中ではその約200ページがこれまでで一番大きな出来事だったのか、仮にその瞬間にそう思ったとしても、その後の人生の中でそれを上塗りする事件が何度も起こるかもしれない。それは彼女自身にも分からない。少なからず言えることは、彼女は200ページ余りの「人生」を生きた、ということである。切り取られた人生であっても、それは紛れもなくその人の「人生」なのである。ラストは、守に盲目になっていた時間が一つの切り取られた「人生」であるとするならば、これから新たな「人生」が始まろうとしているところで締められている。

ガラにもなく『芥川賞全集』なるものを読み進めている。短編小説が中心であるという性質も手伝ってか、こちらにも様々な「人生」が描かれている。それが彼ら彼女らの黄金時代であるのか、暗黒時代なのか、それとも平凡なひと時であるのかは誰にも分からない。しかしそれは紛れもない「人生」であるということは断言できる。

「私自身はその期間の自分の幸福をそれほど明確に意識していなかったが、おそらく私が長い生涯を送ると仮定して、その旅の終りに過ぎてきた跡を追憶して見る時があるとするならば、その一と時の生活は崇高な燦爛たる金色を放って私の眸を眩暈させるかもしれない」 (小田嶽夫『城外』)

あとから振り返れば「崇高な燦爛たる金色を放っ」た「その一と時」を一つに絞ることもできよう。だが我々は今を「その一と時」と思い続けて生きている。あとから思い返せば瑣末なことで悩んだり喜んだりしていたと一笑できることもあろう。だがそれはその人が必死に考え、これ以上ないほど思いを巡らせ、他のことを振り切って駆け抜けた「人生」なのである。

壁の向こう側には行けましたか。
いいえ、むしろ自分の後ろに壁ができて閉じ込められてしまったようです。後ろにも戻ることができなくなってしまったようです。「人生」として切り取られてしまったようです。
足元をよく見なさい、花が咲いています。綺麗ではない花もありますね。これらは全て壁の向こうにあるのではない、貴方と一緒に壁の間に閉じ込められているのです。
そうですか、それは嬉しいですね。大切なことを忘れてしまうところでした。本当にありがとう。
あっちを見なさい、光が差していますね。
本当だ。壁の向こうに行くことも、戻ることもできないかもしれないけれど、ここから出ることはできるかもしれませんね。
歩きましょう。壁は前にも後ろにも動きませんから、貴方が挟まれて死ぬことはありません。ゆっくりでもいいから、歩きましょう。
―――また会うその日まで。

(敬称略)