「言葉」文学部一年 杉田 純


やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。



これは、古今和歌集仮名序の冒頭にある文である。普段私たちが何気なく使っている「言葉」という単語は千年以上も昔から「言の葉」というかたちで使われ続けてきた。今回は、この「言葉」について書いていきたい。

 「言葉」の語源を調べてみると、元々は「こと」という単語であったものに軽い意味を持たせるために「端(は)」という一文字を加えたものであったらしい。当初は「言葉」「言羽」など数通りの表記があったが時代が進むにつれて「言葉」が定着したのだという。つまり、「葉」というものは最初から軽い意味合いを表現するために使われたということである。
 言葉というものはその名の通り本当に軽い、いや、時にはあまりにも軽すぎるものであると私は思っている。というのも、言葉で表現される人の感情はとてつもなく重いものであるからだ。たとえば、大災害を実際に体験した人は、その時見た光景や覚えた感情を言葉で表現し尽くすことができるであろうか。おそらく、どんなにリアリティーのある表現をしてもその人は自分の思いを表現しきれたとは思わないのではないだろうか。本当に心の芯から湧き上がってきたものは
伝えても伝えても満足はできないのではないだろうか。
 少々極端な例を出したが、もっと身近なところでもそういったことは多々あると思う。いじめられた時の苦しみを言葉にできるか?騙された時の悔しさを表現できるか?大切な人との死別を言い表せるか?自信を持ってうなずける人は少ないのではないであろうか。
 そう、人の思いとはとてつもなく重い、文字通り言葉にできないほど重いものなのだ(もちろん、上の例には挙げなかったポジティブな感情にも同じことが言える)。
 人の思いはそんな重いものであるからこそ、言葉はそれを表現するには軽すぎると感じるのである。きっと昔の人々も同じように感じて、「こと」に「は」を付け加えたのであろう。

 そう、言葉は軽いものである。だが、その軽さ故に人から人へと伝わりやすいともいえる。葉っぱが風に乗せられてどこまでも飛んでいけるように、言葉も軽いものであるからこそ感情を誰かに伝えやすくしているという面も大いにあると思う。だからこそ人はそんな軽い言葉というものを使い続けてきたのではないだろうか(現に私も今このコラムにおいて言葉で自分の考えをお伝えしている)。

 私たちは日々、言葉を使っている。それは自分自身に向けたものかもしれない。目の前の一人に向けられたものかもしれない。はたまた、目の前だけでない、もっと多くの人に向けたものかもしれない。いずれにせよ、言葉は誰かの思いを誰かに運ぶ。自分が言葉を使うとき、自分が言葉を目や耳にしたとき、その言葉に含まれているものはとても重いものであるということを常に忘れてはならない、それはないがしろにされてはならないと、私は思っている。

「記憶の棘」政治経済学部二年 高橋美有

パリが未曾有のテロに襲われた11月14日は、私の誕生日でもあった。
朝、起きると、緊迫感のあるパリの様子や響き渡る銃声音を伝えるニュースが目に入り、誕生日特有の幸せな気持ちは一掃された。私のTwitterには、「私は無事です」「人を殺さなければならない理由が分からない」「テロ怖すぎ」といった張りつめたツイートが溢れた。しかし、その緊張感は一日中続くことはなかった。私は、パリの深刻な様子を頭の片隅で意識しながらも、夜になると、友達と美味しいお酒やケーキを楽しんでしまっていた。テーブルの上に置かれた誕生日を祝うオルゴールの音色に耳を傾けながら、こんなことを考えていた。

私たちがこの目で見、耳で聞き、手で触れられる範囲は限られている。どれほど技術が発達しても、私たちが生活している範囲は地球上のごく小さな部分に限られている。私たちは、生まれた土地の慣習や周囲の人々と親しみながら、世界を見る目を養ってしまっている。親友の気持ちを推し量るように、世界の裏側の貧しい子どもの感情に思いを巡らすことは出来ない。兄弟の身を慮るように、海を隔てた国に住む人々の命を心配することは出来ない。これは身近な世界を美しく彩ることであると同時に、とても悲しいことなのではないだろうか。

今年9月、安全保障関連法が可決された。この法律によって、日本と存立が脅かされる存立危機事態や日本が攻撃される蓋然性が高い重要影響事態において、自衛隊が海外において活動できる範囲が拡大された。確かにこの安全保障関連法、集団的自衛権違憲であると思う。そもそも、自衛隊自体が限りなく違憲に違い存在であると思う。陸海空軍その他の戦力を保持しないという条文通りに読めば、自衛隊のような実力組織は本来持てないはずである。しかし、国家の国民の生命や財産を守ることは国家の役割であるのだから、それを果たすための自衛隊を否定することはない、という解釈によって自衛隊は許容されてきた。元来、憲法と事実にはひずみがあるけれども、それでもなお憲法が武力に頼らない平和構築を目指し続けることが、日本の武装化に歯止めをかけてきた。であるならば、問題は合憲か違憲かにはないのではないかと思う。もちろん、権力に抗って人々が法案廃止にむけて声をあげることにも大きな意義がある。しかし、本当に求められているのは廃止だろうか。国会の承認を経ずに自衛隊の海外派遣を認めている例外規定を撤廃するにとどめるだけでも良いのではないだろうか。あるいは、国民の過半数が安保法案に反対しても(読売新聞 9月21日朝刊)、自衛隊違憲の度合いを強める政府の強行を阻止できない政党制度、選挙体制に議論を移しても良いのではないだろうか。

日本は世界3位のGDP、世界9位の軍事費、世界トップレベルの自衛隊装備を有している。紛争の絶えないこの世界で、経済援助だけが日本に求められている役割で無いことは、湾岸戦争において、圧倒的な資金援助をしたにも関わらず、自衛隊を派遣しなかったために各国から日本が批判されたことからも分かる。それ以来、カンボジアでの平和維持活動を皮切りに、イラク南スーダンなどでインフラの整備や衛生環境の改善に尽力している。日本の自衛隊は現地の人々が厚く感謝されているという報告も多々寄せられている。日本の自衛隊が日本国外の人々をもっと幸せにする力があるのではないだろうか。

ジョセフ・ナイは、テロリズムは劇場のようなものであると著書の中で述べた。テロによる衝撃的な攻撃によって、たとえ一瞬であったとしても、私たちの認識世界は拡大したように思う。海を越えたパリ市民が得体の知れない武装集団を恐れたように私たちも爆破テロや銃撃戦を恐れた。人間の認識世界を広げることは不可能ではない。世界の裏側の貧しい人々の気持ちに真摯に思いをめぐらすことさえ不可能ではない。私たちの、認識世界は広がらないだろうか。広げなくてもいいのだろうか。世界有数の経済力、技術力、実力を有し、なによりも平和を望んでいる日本に住む、私たちは。

「新しいまち」政治経済学部 一年 齊藤雄大

 番号が割り振られたトラックが閑散とした道を行き交っていた。そして、多くのショベルカーが、土砂を積み上げる作業を進めていた。あの日から、4年半以上が経った今、被災地の人たちは何を考えるのだろう。
私は、今月初旬、岩手県陸前高田市を訪れた。3.11の津波の被害を受け、市内のほとんどが荒野となった場所だ。滞在していた2日間は、天気も良く、防寒のために持って行っていたコートもリュックの中から出すことはなかった。復興公営住宅の建設、住宅の高台移転、道路の拡張工事など、新しいまちとしてのスタートを切るべく復興工事が進められていた。いたるところに、大きな看板に大きな文字に“新しいまち”という文言が掲げられていた。

では、“新しいまち”として目指すべき姿とは、どのようなものだろうか。当然、防災というキーワードは重要になってくるであろうが、それだけではない。震災によってさらに深刻化した人口流出、少子高齢化、老朽化や、産業の基盤である漁業がしやすいまちづくり等考慮しなければならない要素は、数え切れないほどある。しかし、これらの問題を抱えているのは被災地だけでない、日本各地の地方都市で同様の問題を抱えているのだ。そして、その解決策の一つとして、進められているのが、コンパクトシティである。コンパクトシティとは、行政機関はもちろん、民間企業のオフィスや商店、そして、住宅までも比較的近距離や主要道路沿いに集めることによって、インフラの設備や公共交通機関の効率性を上げようとするものである。このコンパクトシティ政策を積極的に進めている自治体の一つが、北海道の夕張市だ。

ご存知の通り、夕張市は、2007年に財政破綻し、財政再建が必須となっていた。そこで、新しく市長となった、元・東京都庁職員の鈴木直道氏は、コンパクトシティ政策を中心にまちの再建に取り組んだ。その際、補助金や新しい住居の確保など、様々な支援策を講じたが、住民の反発は大きかったという。先祖代々受け継いできた土地を離れたくない、もう何年生きられるか分からない人生なのに、思い出の土地も奪ってしまうのかと。しかし、現在では、鈴木氏の交渉もあってコンパクトシティとして一定の効果を上げている。その詳細については、ここでは言及しないこととする。今回私が訪れた陸前高田市は、市街地のほぼ全域が、津波の被害を受けたため、ゼロベースのまちづくりを行うことになった。そして当初コンパクトシティ政策を中心にまちづくりが、行われていた。防災の観点から見ても、行政機関や住宅が集中していた方が効率的に防災計画を講じることができる。しかし、現在では、コンパクトシティそして、津波からの保護を重視した防災計画も行っていないという。ではなぜ、陸前高田市の政策方針は、変更されたのだろうか。それは、住民の強い意思だったという。陸前高田市として、まちづくりを行う際に、住民の意見というものを重視した結果、政策方針が変わったのである。

民主主義国家である日本において、政治が、住民の意見を重要視するのは、当たり前かもしれない。しかし、まちの将来を考えたとき、政治が住民の多数派と意見が異なっていたとしても、政治家が自らの方針を打ち出していく必要もある。陸前高田市では、実際に行政の職員が、実際の多くの家(その多くが仮設住宅)を訪問し、住民の声というものを聞いて回ったのだ。そして、防災計画に関しても、やはり水産業中心のまちとして、海と共に生活していきたいという住民の意思を反映し、堤防等で津波の脅威を防ぐという守りの計画ではなく、有事の際にしっかりと避難できるようにしていく防災計画を作ったのだ。具体的には、道路の片道4車線化や避難所、避難経路の整備、拡充である。そうして、震災からのまちづくりというものに、真に住民の意思が反映されることにより、住民の復興からのモチベーションや行政への信頼というものにつながっていったのは間違いない。震災の荒野から、立ち上がるためには住民と行政が一体となっていくほかないのである。そして、この陸前高田市の取り組みは、他の自治体としても、“前例”として活用していくことができる。首都直下型地震南海トラフ地震、いずれも予測ではあるが、甚大な被害が予測されている。その対策を講じる際に、住民の意見を直接ヒアリングするというプロセスをやはり重視すべきである。前述の通り有事の際に、行政と住民がいかに協力していけることが、復興計画を円滑に進めていくための最重要課題となるのである。そのために、今回の陸前高田市の“前例”をもとに、事前協議の段階から、住民参加型のまちづくり計画を行うものである。それによって、いざ有事の際にも、住民側も何を次にすべきかを共有していることで迅速に行動をとることができるのである。

そもそも、住民が助けられる側で、行政が助ける側ではないのである。住民の代表が、行政であり、この場合で言えば、地方自治体なのである。震災から、4年半以上経った、復興は道半ばであるが、震災当時の混乱はすでに終息している。被災地をこれからもしっかり見つめていくとともに、被災地の復興と自分たちのまちを見比べながら、自分たちのまちのことも見つめ直さなければならないと思う。自分たちの命と、このまちを守るために。





<復興のシンボル・奇跡の一本松>(筆者撮影)

「<他者>について語るということ」法学部二年 稲葉浩輝

 早稲田大学雄弁会。雄弁でもって社会を変革する。そんな大層なことを掲げ、社会に対する当為を日々錬磨し弁論を通して当為を実践するのが、我々雄弁会員です。113年もの歴史の中で、「雄弁」という社会変革の手段は、伝統となりました。

 私はこのサークルで活動する中で、「社会について語るとはどういうことなのか。」と自らに問いかけてきました。これではあまりにも問いが漠然としているので、少し具体化しましょう。

 人々は社会について「Xが問題だ」という形で、自らの問題とするものについて発話をします。貧困が問題だ、児童虐待が問題だ、民族紛争が問題だ…etc といった調子で。「Xが問題」という言説をさらに詳しく考えてみましょう。「Xという社会事象によって、Yという人々が苦しんでいる。救わなければならない」という意味が、「Xが問題だ」という言葉に含まれています。そんなこと当然ですね。では、この問いを少し変えてみましょう。
 
 『なにゆえ「私」が「Yという人々」について語ることができるのか。』

 これはしかと考えなければならない問いの様に思えます。社会問題について語るということは、すなわち〈他者〉について語るということに他なりません。Yという人々は、私とは違う、固有の経験をもつものです。私と〈他者〉の間には、高いものか低いものかはさておき、必ず「塀」があり、それは、乗り越えることのできぬものです。私は〈他者〉をその塀越しに、まなざすことしかできません。

 私は〈他者〉の被る、苦悩、葛藤、生活での困難などは味わうことはできないというだけではなく、私は〈他者〉ついて語ることができる状況にあるという特権さえ有しています。「そんな立場の違う私が、他者について語ることは暴力ではないのか」、「なぜ私が彼ら/彼女らについて語れるのか」これが私の違和感の始まりでした。

 この問題については、「表象不可能性」という名前がつけられ多くの議論がなされてきました。アラブ文学者であり第三世界フェミニズムの研究者である岡真理氏はこう問いかけます。

 「他者の真実とは、まさにそれが真実であるがゆえに表象不能の深い深淵であり、私たちは、その深淵のふちを手探りで辿ることによってしか、あるいは、その深淵を満たす圧倒的な沈黙の重みに静かに身を委ねることでしか、触知することができないのではないか。」(岡真理 2000『彼女の「正しい」名前とは何か』青土社: p118)

 〈他者〉について語ること。それは、他者についての真実(或いは「経験」)を、他者に代わって、私が発話するということとして社会で機能します。私は他者についての真実を知りません。他者に固有の経験は、私は経験することができない以上、私は他者の真実を表象することはできません。いや、表象できないのは、彼ら/彼女ら自身でもそうかもしれません。

 考えてみてください。感動した気持ち、悔しかった想い、怒った感情。それは言葉にして表象することができるでしょうか。多少はできるかもしれません。しかし、自分自身の経験を、言葉にして表現するときには、何度も言い直したり、また文章を書いてる時であれば、書き直したりすることは日常ではないでしょうか。140文字のツイッターでなにかを表現するときも、書き直したりすることは意外と多いのではないでしょうか。言い直し、書き直し、やり直し、ためらい… それらの繰り返しが、我々の「自己表象」なのです。そんな、自らが表象することも困難な−或いは、全てを表象することが不可能という意味で、「表象不可能な」と言ってもよいかもしれません−経験を、他者が語ることが果たしてできるのか。

 また別の側面から、この表象不可能性について考えてみましょう。もしあなたが「表現する術」を失ったら。事情はなんでも構いません。喋ることも、なにかを書くことも、体を動かすことも困難な状況を想像してください。そのような状況でも、意識は残っている。そして、あなたを囲む人々は、あなたには何も聞こえていないとたかをくくって、あなたについて噂をし、あなたの周りには耳障りな言辞が飛び交います。しかし、あなたは反論できません。もし他者があなたの真実とは異なることを言っているとしても、言い返すことすら、反応することすらできない。〈他者〉について語ること、それは、〈他者〉を支配することですらあるのです。

 少し脇道にはそれますが、「噂」について考えてみましょう。人間は卑しい生き物です。本人がいないところでこそ、噂は盛り上がり、噂をするものたちは快楽を得ます。それは、なぜ快楽なのか。それは、支配だからです。本人がいないところでは、いくら事実とは異なることを語っても咎められないし、話は誇大になっていく。そこで人々は、全能であるように感じる。そんな経験は、誰にでもあるのでしょう。ええ、私も、あなたも。そして、一度ではなく、幾度も。

 〈他者〉について語ること。それは、支配です。無自覚的な暴力の行使、といってもいいでしょう。では、人は他者について語ることを禁じなければならないのか。他者について語ってはいけない、そう考えてなにも行動しなければよいのか。

 私にとっての答えは「それでもなお」です。他者の表象は不可能です。しかし、それでもなお、ニヒリズムに陥ることなく、私たちは語らなければならない。それはなぜか。他者の存在を忘却に押しやり、語ることを拒否することさえも暴力であるからです。虐殺されたもの、搾取されるもの。そんな彼ら/彼女らの存在を想起もせず、厳然と実在する問題について目を瞑ること。これは、ただの無責任でしかありません。

 表象不可能な〈他者〉の存在、そして語らなければならないという自らが引き受けた責任。この二つの相反する要請に我々はどう答えることができるのでしょうか。そこで3つの条件を検討しましょう

1.「〈他者〉による自己表象を傾聴すること」
自己表象は上述のように完全ではありません。しかし、他者の真実を唯一知るものは、他者でしかないのもまた揺らぐことのない事実です。他者による自己表象を傾聴し、その声を聞き分けていくことが重要となるのです。

2. 「〈他者〉が抱える「いたみ」の共感に努めること」
自己表象の先には何があるべきでしょうか。その先にいたみを「共感」することが必要ではないでしょうか。他者の自己表象を自らで噛み砕き、追体験をしようと努めること。その営為の中で、自らが理解できること、できないことの境界が現れてくる。

 上述の2つの条件は、他者の存在への接近を目指すものであると言えるでしょう。塀越しにまなざす他者の存在を、自らが背伸びして、知る努力をする。しかし、「塀越しに他者をまなざす」ということは、それが時には卑しいことにもなってしまう可能性もある。他者と話すこと、それは他者が「記憶」を想起することです。それは封印したい記憶かもしれない。その危険性は意識しなければなりません。しかし、他者の自己表象があるときに、我々は気づき、そしていたみを共感する努力をしなければならないことは変わらないことではないでしょうか。

 そして、次が最後の条件。

3. 「〈他者〉の表象不可能性を絶えず意識すること」
 他者の「いたみ」は、他者の真実は理解はできません。理解したい、他者の理解者でありたい。そんな欲望は誰しももってしまうものではあると思います。目の前で苦しむ他者のいたみを理解したい。しかし、理解はできないのです。追体験は、あくまでも追体験でしかありません。

 追体験とは、〈他者〉が歩いてきた道のりを、また違う季節に、違う視線から、違う想いで歩くことです。同じ景色は、二度と現前しないのです。追体験したことで自らの共感性の高さに陶酔することなく、他者の表象不可能性を絶えず意識しなければなりません。追体験は、〈他者〉という器からこぼれおちた、一滴の水を飲むようなものですから。

 私はわからない。なにも、わからない。そんな自らの無力さについて、「語ることのできるもの」は自覚しなければなりません。わからないことが、わからない。その傲慢さ、その卑しさ… それらから、決別しなければなりません。では、「共感」は、どうあるべきか。先述の岡真理氏はこのように答えます。

 「出来事の暴力性は、彼女たちのその苦痛とそれに対する私の「共感」は、彼女たちの「身体の深み」においてではなく、むしろ私自身の徹底的な非力さにおいて語らなければならないのではないか。」(Ibid: p230)
 
〈他者〉の存在を知る、背景を知る、生活を知る、共感に努める。もちろん重要です。しかし、その中で、まず第一に為さねばならぬことは、自らの不可能性への自覚、そして他者の表象不可能性を絶えず意識することです。

  私は〈他者〉の真実には到達しえない。だからこそ、私と〈他者〉との間にある、絶対的な共訳不可能性の先にこそ、「共感」という行為が可能になる地平を見出せることができるのではないでしょうか。私は、〈他者〉についてなにもわからない、そんなニヒリズムを極めた先にこそ、自らの非力さ、無力さについて目を向けた先にこそ、他者表象の不可能性を乗り越え、共感という行為を通じた「語り」が可能となるのではないでしょうか。

 では、最初の問いに戻りましょう。社会について語るとはどういうことなのか?

"Who permitted me to be a woman?" 法学部三年 吉原優

紙面の上で、誌面の上で、あるいはデジタル媒体の画面の中で、「女性の社会進出」という言葉が躍る昨今。

 女性が“輝く”社会にするために、女性を“活用”する。

 それは、立派なスローガンを掲げた、素晴らしい試みのようにも思えます。

 血を吐くような歴史を踏んだ、その着実なひとつの成果として、現在の“男女平等”の社会はあります。

 社会の意思決定にすら携わることも出来ず、ただ命を次代へ継ぐ道具のような扱いをされた、そんな歴史の下に踏み躙られてきた女性たちに比べれば、現代を生きる女性はとてつもなく恵まれていると言えるのでしょう。

「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。」

 明治の女流思想家であった平塚雷鳥は、文藝誌『青鞜』を刊行するにあたり、上述のような言葉を寄せました。

 現代の女性を見てみましょう。“他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月”のようには、少なくとも見えないかもしれません。



 翻って、私の話をしましょう。

 この早稲田大学雄弁会という、歴史ある、いち大学弁論サークルは、完全なる男社会であると言えます。

 ただ、誤解のないように先に述べておくならば、ここにおける男女の扱いは、非常に平等であるとも言えます。なぜならば、議論において常に人は平等である、というのが、このサークルの長所のひとつでありますから。

 しかしながら、ここのサークルは、創立100年を越える伝統を有しているからなのか、それとももっと別の理由があるのかは知りませんが、本当に、とにかく、男社会の権化のような場所です。
 実際に、現時点でも30人近くいる会員のうち女子はたったの4人ですし、歴代140人近い幹事長の中で、女性の幹事長は私を含めわずかに2人だけ。その初めての女性の幹事長が誕生したことすら、わずか15年ほど前の話だといいます。

 そんなサークルにまず入ってきて、信じられなかったのがお風呂の時間。
 新入生として最初の合宿に挑んだ時、私はまず驚愕しました。お風呂の時間として想定されていれていたのは、わずか30分でした。明らかに男子の烏の行水しか想定していない時間配分です。

 それから面白かったのが、活動ひとつひとつの泥臭さ。
 明らかに、女子同士の繋がりには見られないような密度で、このサークルの活動は続いていきます。同期同士、先輩後輩関係、お酒で繋がったり、あるいはなにかの熱で繋がったりと様々ですが、とにかくそのひとつひとつが泥臭い男同士の繋がり方を想定しているんです。

 あとは、求められる根性論も見モノでしたね。
 自分がそういった類の女子ではないことを前提にしても、大学構内で同じようなパステルカラーの洋服を着てかわいらしく微笑み合っている女子たちには耐え難いことが想像できるほど、このサークルの活動には“根性”と“忍耐”が求められます。もちろん、いい意味で。

 そんな環境の中で生き始めて、かれこれ2年半以上が経ちました。私は高校まで完全共学の中で育ちましたし、それなりに同性の友だちもいましたから、ここまで男しかいないような環境にも実はそんなに慣れていませんでした。

 最初の1年。ここを乗り切れたのは、本当に女子の同期がいたからだと思います。彼女と一生懸命、2人で支え合いながら、同期の男たちの愚痴を言いながら、どうにかこの男社会で“女”という殻を2人でつくって自分たちを守りました。

 けれど、2年目に差し掛かったころ、その女子の同期が様々な事情があり、会を辞めてしまいました。私は途方に暮れました。今まで“女”という殻に閉じ籠っていれば守ることが出来たものが、急に守れなくなってしまった。
 しかもそれは、女子にとっては実は一番必要なものでした。いわば、“同調性”のようなもの。私は唐突に、それを奪われたことを悟りました。

 2年目に入りました。その時、同期は私を含め6人。うち、5人は男子でした。そして驚くべきことに、1つ上の3年生の代にも、2つ上の4年生の代にも、女子の先輩はいませんでした。新入生が入ってきていない2年生の3月から4月にかけ、私はこのサークルの中で、本物の紅一点だったのです。
 その時、私はどうしたか。簡単です。この環境の中で“同調性”を求める一番な簡単な方法は、自分が“男”であると振る舞うことでした。実際、私はそう振る舞いました。殊更に自らが“男”であることを強調し、この男社会に対して自らへの“同調”を求めました。

 いま思い返せば、とても苦しかった時期でした。でもその頃はあまりにも懸命で、自らの振る舞いが逆に男社会に馴染んでいないことに気付きもしませんでした。

 そのうち、後輩が入ってきました。女子が数名、合宿に来たことはとても嬉しかった。同時に、その女子たちが、自らとはまったく違う“女子”であることに気が付きました。彼女たちは“男”として振る舞わなくてもよかったのです。
 それは彼女たちが“同調”を求めない女子たちだからなのか、それとも私という贄がいたからなのかは定かではありませんが、私は最初、私と彼女たちの対比の中で、彼女たちの振る舞いに強烈な違和感を覚えました。

 そのうち、違和感はどんどんと膨らみました。どんなに“男”として振る舞っても埋まらない同期たちとの溝や、男である後輩たちと男である同期たちとの関係性に、私は苛立ちを募らせました。こんなはずじゃなかった。こんなつもりで、私は“男”として振る舞ったのか。

 ゆるり、ゆるり、と煙は立ち昇り、やがてその麓から炎は燃え立ちました。きっかけがなんであったか、そして自らがどのように自らを方向転換させたのか、正直、私はその頃の自分を明確には思い出せません。
 けれどその時、確かに“男”という脆い盾は私の手から離れていきました。代わりに残ったのは、女子であったはずの私でした。

 その瞬間、私は“強さ”を失い、“弱さ”を手に入れました。

 男社会では脆弱さの象徴であるもの。男社会では理解され難いもの。男社会では、おそらく淘汰の対象となるもの。


 それは、“母性”と言い換えられるかもしれません。


 そこからの私は、それまでの1年間の私ではありませんでした。自らも驚くほど、私は変わりました。当時の私を知る友人から「ホントに変わった」と驚かれるほどです。

 そうして、母性を手に入れた私は、この男社会の権化に、ひとつだけ小さな石を投じました。今まで“父性”によって回ってきたこの社会に、“母性”の存在をひっそりと焼き付けて、私は舞台を降りました。



 さて、冒頭のお話に戻りましょう。

 女性が“輝く”社会へするために、女性を“活用”する。

 それは、立派なスローガンを掲げた、素晴らしい試みのようにも思えます。

 血を吐くような歴史を踏んだ、その着実なひとつの成果として、現在の“男女平等”の社会はあります。

 社会の意思決定にすら携わることも出来ず、ただ命を次代へ継ぐ道具のような扱いをされた、そんな歴史の下に踏み躙られてきた女性たちに比べれば、現代を生きる女性はとてつもなく恵まれていると言えるのでしょう。


 さて、みなさん。
 “活用”することが、なぜ“平等”であると言えるのでしょう?


 考えてみてください。いまの社会が求めているのは、結局、次代を継ぎながら労働力にもなる、そんな都合のいい女性像です。ともすれば、過去よりももっと悲惨かもしれません。だって、母性も父性も、どちらも現代の女性には求められているのですから。

 確かに、女性は再び太陽のように自らの力で輝けるようになりました。しかし、その“輝き”という称号は、今でも父性を有している女性にしか与えられていないように思えます。
 本当は、“男女平等”という言葉は、母性と父性が同居した場所にこそ似つかわしいはずであるのに…?



――男から女への最高の誉め言葉は、「あなたは考え方が女らしい」と言うこと――
英国初の女性首相 M・サッチャー

「一番の苦しみから人を救うということ」文学部一年 杉田純

 誰しも、病気やケガで苦しんだ経験があるであろう。また、日常生活で何か嫌なことやつらいことがあった時も人は苦しみを感じる。そんな時、本人にとって一番大きな苦しみは何であろうか。


 私は食事中に口の中や舌を噛んでしまうことがよくある。このように書くだけでは、読者の皆さんにもたいしたことではないように感じられるかもしれない。しかし、口の中というものは敏感で、思い切り噛んでしまうと意外と痛い。食事中に自分の口の中を噛んでしまうことなど予想するはずもなく、痛みに備えていないので尚更痛い。当然、そうなれば私は痛がるのであるが、傍から見れば全くたいしたことに思われない。そのため、私の父親は私に気遣いの言葉などかけないばかりか、「いつもの事だろ」と、さも興味がなさそうに言う。要するに、私の痛みを理解しようとしてくれないのだ。そんな時、私は自分の口内の痛み以上にそんな父親の態度が心に突き刺さるような思いがする。


 ここに記した私自身の例は些細なことである。しかし、例えば、悩みを語る人を前に「そんなのたいしたことないよ」と言ったら?いじめられていることを訴えた人に対して「お前が弱いからだよ」と言ったら?皮膚病の人に向かって「うわ、気持ち悪い」などと言ったら?
 いずれも、本人の苦しみを受け止めていない反応である。せっかく他の人に自分の苦しみを訴えたのにもかかわらずその苦しみが受け止められず、また理解されなければ、本人にとっては大変つらいであろう。私が思う、冒頭の問いへの答えは、「他の人が自分の苦しみを受け止め、理解してくれない」ことである。


 人は、物理的に他の人の心や身体の痛みを本人と同じように感じることはできない。そのため、場合によっては他の人が訴える苦しみがたいしたことではないように思えてしまうことがある。しかし、痛みを同じように感じることができないからこそ、本人の声を無視してはいけない。
大切なことは、本人が訴える苦しみを受け止め、理解を示すことである。自分の苦しみを誰かにわかってもらっただけで、人は不思議と楽に感じることがある。苦しむ人の、その苦しみを現実的に除去できる人は限られている。病気やケガなら、医療の知識がある人でなければ治すことはできないし、学校での悩みならば学校に関係している人でもなければその悩みのもとになるものをなくすことはできない。だが、本人の苦しみを受け止め、理解を示すことなら誰にでもできる。そして、それだけで本人を一時でも苦しみから救うことができるのである。私たち一人ひとりが、目の前の人にとっての救いとなれるのである。

「いろいろ<色々>」政治経済学部一年 宇佐美皓子

この文章見てどう感じるだろう

これが私の見えている世界である。
世の中には、このように文字に色を感じる共感覚を持つ人々が存在する。
共感覚とは、文字や数字や音に、色や形を感じる現象である。

中学校3年生の時にテレビで共感覚特集を見るまでは、他の人も同じように文字に色を感じ、数字に性格がついていると思っていた。
自分がこれまで当たり前であると感じていた感覚が、「共感覚」という特殊な現象として名前付けられたのである。
その時から私は、自分の持つ共感覚は他人には理解し得ない、特殊で異常な感覚であると常に感じるようになった。

しかし今でもふと思う。自分が共感覚者であることを今も知らなかったら、私は自分の感覚が特殊であると感じていただろうか。
他人から、私の所有する感覚に対して、人とは違った普通ではない異常な「共感覚」という評価を下されることにより、本来何も変わっていないはずの私の意識さえ変わってしまったのではないか。
他者の評価というものは、時に良くも悪くも、人の認識をがらりと変えてしまうことがある。
私たちは、自分たちの評価が時に暴力装置となりうることに注意しなくてはならないのではないだろうか。