「一番の苦しみから人を救うということ」文学部一年 杉田純

 誰しも、病気やケガで苦しんだ経験があるであろう。また、日常生活で何か嫌なことやつらいことがあった時も人は苦しみを感じる。そんな時、本人にとって一番大きな苦しみは何であろうか。


 私は食事中に口の中や舌を噛んでしまうことがよくある。このように書くだけでは、読者の皆さんにもたいしたことではないように感じられるかもしれない。しかし、口の中というものは敏感で、思い切り噛んでしまうと意外と痛い。食事中に自分の口の中を噛んでしまうことなど予想するはずもなく、痛みに備えていないので尚更痛い。当然、そうなれば私は痛がるのであるが、傍から見れば全くたいしたことに思われない。そのため、私の父親は私に気遣いの言葉などかけないばかりか、「いつもの事だろ」と、さも興味がなさそうに言う。要するに、私の痛みを理解しようとしてくれないのだ。そんな時、私は自分の口内の痛み以上にそんな父親の態度が心に突き刺さるような思いがする。


 ここに記した私自身の例は些細なことである。しかし、例えば、悩みを語る人を前に「そんなのたいしたことないよ」と言ったら?いじめられていることを訴えた人に対して「お前が弱いからだよ」と言ったら?皮膚病の人に向かって「うわ、気持ち悪い」などと言ったら?
 いずれも、本人の苦しみを受け止めていない反応である。せっかく他の人に自分の苦しみを訴えたのにもかかわらずその苦しみが受け止められず、また理解されなければ、本人にとっては大変つらいであろう。私が思う、冒頭の問いへの答えは、「他の人が自分の苦しみを受け止め、理解してくれない」ことである。


 人は、物理的に他の人の心や身体の痛みを本人と同じように感じることはできない。そのため、場合によっては他の人が訴える苦しみがたいしたことではないように思えてしまうことがある。しかし、痛みを同じように感じることができないからこそ、本人の声を無視してはいけない。
大切なことは、本人が訴える苦しみを受け止め、理解を示すことである。自分の苦しみを誰かにわかってもらっただけで、人は不思議と楽に感じることがある。苦しむ人の、その苦しみを現実的に除去できる人は限られている。病気やケガなら、医療の知識がある人でなければ治すことはできないし、学校での悩みならば学校に関係している人でもなければその悩みのもとになるものをなくすことはできない。だが、本人の苦しみを受け止め、理解を示すことなら誰にでもできる。そして、それだけで本人を一時でも苦しみから救うことができるのである。私たち一人ひとりが、目の前の人にとっての救いとなれるのである。