『「十字架上の日本」と「正しさ」について』 社会科学部1年 松岡宏明

 1945年8月15日正午、昭和天皇玉音放送を持ってポツダム宣言の受諾が表明され第二次世界大戦は日本の降伏という形で終戦を迎えた。もっとも第二次世界大戦における終戦記念日をいつにするかという点については日本国内・日本国外でも諸説あるのだが現在の日本では「戦没者を追悼し平和を祈念する日」という意味での終戦の日玉音放送の行われた8月15日としている。

 毎年8月になると終戦記念フェアなるものを始める書店がある。終戦記念フェアのコーナーでは昭和天皇近衛文麿東條英機広田弘毅松岡洋右木戸幸一石原莞爾……といった人物を取り扱った数々の書籍が並んでいる。そのような空気に影響されてか私も今回のコラムでは松岡洋右と彼の演説「十字架上の日本」の話をしてみようと思う。

 松岡洋右山口県出身の政治家・外交官で日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。今回のコラムで扱う「十字架上の日本」の演説とは1932年12月8日、ジュネーブ国際連盟総会で日本首席全権の松岡洋右が英語で行ったおよそ1時間20分にわたる演説である。

 この「十字架上の日本」の中で彼は「満州は第一に我々固有の権益に依拠し、第二に東亜における安寧秩序に基づくものである。日本独自の権益を主張する立場から言えば満州は日本の生命線なのである。」ということを主張し、連盟の日本非難に対してはそのモチベーションが、外交上の利害や安全保障の原則ではなく、「世論」に基づくものに過ぎないということを追及した。以下は「十字架上の日本」の中でも特に日本非難に対しての反論の一部分である。

「たとえ世界の世論が、ある人々の断言するように、日本に絶対反対であったとしてもその世界の世論たるや、永久に固執されて変化しないものであると諸君は確信できようか。人類はかつて二千年前、ナザレのイエスを十字架にかけた。しかし、今日、どうであるか。諸君は、いわゆる世界の世論なるものが誤っていないと、果たして保障できようか。我々日本人は、現に試練に遭遇しつつあるのを覚悟している。ヨーロッパやアメリカのある人々は、今20世紀における日本を十字架にかけんと欲しているのではないか。諸君、日本はまさに十字架にかけられんとしているのだ、しかし我々は信ずる。固く固く信ずる。わずか数年ならずして世界の世論は変わるであろう。しかして、ナザレのイエスがついに世界に理解されたごとくわれわれもまた世界によって理解されるであろう、と。」

 イエスを処刑したピラト総督は本心ではイエスを釈放することを望み、群衆の前でイエスと強盗犯のバラバのどちらを恩赦によって釈放したらよいかを聞いたところピラトの予想に反して群衆はバラバを釈放すべきだと叫んだ。つまり、イエスの処刑というのは当時の世論を反映したものであったといえるのだ。しかし、現代の人々に「イエスとバラバどちらを釈放したほうがよいのか」と尋ねた場合その答えは当時の人々の多数派が出した答え、すなわち「イエスを処刑しバラバを釈放するべきだ」という答えと一致するだろうか。私はこのような質問をしたことはないので現代の人々がどう答えるかはわからないが、少なくとも松岡洋右は「イエスを処刑するべきではなかった」と考えていたのだろう。同様に、国際連盟の総会において日本は諸外国(特にヨーロッパの中小国家)から非難されることになったが日本が国際連盟を脱退せざるを得ない状況になるまで日本を非難するという諸外国の行為は果たして本当に正しかったのだろうか。確かに当時の「世論」を鑑みると日本を非難することは「正しい」ように思える。しかし、それは諸外国の国益を考えたとき本当に「正しい」行動だったのだろうか。日本が国際連盟から脱退することは日本にとって損失であったのは言うまでもないが自国の安全保障を国際連盟に頼っている部分の大きかったヨーロッパの中小国家にとっても損失だったのではなかろうか。

 また、この演説を終えて帰国した松岡洋右は「日本の立場を国際社会に理解させることができなかったのだから自分は敗北者である。国民には陳謝する」とのコメントを出しているが、国民は彼を「ジュネーブの英雄」として大歓迎した。少なくとも戦前において、松岡洋右は国民やマスコミの間では一定の支持があり高評価を受けていた。しかし、現在はどうであろう、肯定的な評価をされているとは言い難いのではないだろうか。松岡洋右国際連盟の総会で言ったように「世論」というものが不変ではないということが彼の評価についても当て嵌まったというのは何とも皮肉なことだ。

 彼の演説と戦前と戦後での彼に対する評価は私たちに「ある時代、ある共同体の多数派によって『正しい』と受け入れられていることを『常に正しい』ということはできない」ということを改めて気付かせてくれるものではないだろうか。