「わたしがあなたを呼ぶのなら」 法学部二年 吉原優

 人間は所有を示したがる生き物で、自分のお気に入りにはなぜか名前を付けたがる。あるいは、人類は新たななにかに名前を付けることで、一種の世界掌握への優越感に浸っている節もある。と、私は思う。

 「名前」とは、なんであろうか。そんなことを思わせる、とあるエピソードがある。


 豚の「Pちゃん」。一時期、ほんの少しだけ有名になった豚がいる。
 とある小学校で行われた「命の授業」が、世間で決して小さくはない物議を醸したのだ。

 白いパックに詰められた赤い肉が、ラップに包まれてスーパーマーケットで売られている。血液がダラダラと滴っているでもない、あとは食べるだけの加工された綺麗なお肉。牧場や屠殺場が目に見える位置にある訳でもない、安穏とした、便利な生活の中で、動物の死を自らの生に換えていることを、私たちは実感していない。

 そんな、現代社会の発展の陰で囁かれる小さな疑問が、この授業の起因だったのだろう。
 担任教諭は、まだ新米の教師だったという。小学4年生のクラスの担任を持ったとき、彼が子供たちにしたある提案が、のちに幾度も映像化され、議論を呼んだ。

「クラスで豚を育てて、食べよう」

 豚は、「Pちゃん」と名付けられた。子供たちは、自分たちが懸命に世話をする「Pちゃん」を、自分たちに懐いてくる「Pちゃん」を、ただの家畜だとは見られなくなる。純真な子ども心だ。むしろ、そうならない方が不自然なのかもしれない。
しかし、そうして躊躇いに躊躇いを重ねるうちに、いつのまにか選択の時は迫っていた。

 彼らは卒業の年を迎えようとしていた。既に、「Pちゃん」は、家畜としては大きくなり過ぎていた。
このまま学校のペットとして後輩に継いでいくか。それとも最初の目的の通り、「Pちゃん」を殺して食べるのか。
何度も何度も話し合いを重ねる、10歳を少し超えたばかりの少年少女たち。彼らは子どもらしく純真だった。当初の目的を完遂すべきであるという意見と、やはり殺すのは可哀想だという意見。両者は譲らない。次第に親まで巻き込んだ論議になっていく。
どちらが幸せか? どちらがPちゃんにとって幸せか? どちらが人間にとって幸せか?
話し合いは、彼らの卒業式の前日にまで及んだ。
――僕らが始めたことは、僕らで終わらせる。
 彼らはそう決意し、激しく嗚咽しながら、Pちゃんをトラックに乗せた。

 そして後日。
 食肉となったPちゃんが調理されて皆の前に出された。笑顔、泣き顔、その肉を口に入れる子ども、あるいは、どうしても食べることが出来ない子ども。その反応は本当にそれぞれだった。
 しかし一様に、彼らはひとつの命を見届けたのである。


 この授業の是非を、私は語るつもりはない。この授業は、いかようにも解釈でき、しかも、その結果はきっとこれを体験した子どもたちにしか共有できないものであるだろうから。
 ただ私が言いたいのは、この授業の元々の意味は、既に最初の段階で失われていた、ということなのである。

 再度問うてみよう。名前を付けるということは、どういうことなのか。

 それは、受容である。
それは、所有の表明である。
それは、愛情の表現である。
それは、同質の解放なのである。

 考えてみてほしい。
 私たちは、ペットには名前を付ける。しかし私たちは、家畜には名前を付けない。
 なぜだろうか。私は、それこそが同質と異質の明確な体現だと思うのである。
 
 人間は、同質のものを食べることを拒否する傾向にある。我々は猿を食べようとはしないし、ペットとし得る哺乳類を食べることはめったにない。本能の段階で、「同質」を食らうことに強烈な違和、あるいは嫌悪を覚えるからではないだろうか。
 だからこそ、私たちは家畜には、自らの体内に取り込む諸要素に対しては、名前を付けることがない。あくまでも「異質」を強調し続ける。それは「豚」だ。それ以上でもそれ以下でもない。そこにカテゴライズされる、生物のひとつでしかない、と。

 つまり私たちは、無意識のうちに、「同質」と「異質」を選り分けているのである。

 ここで立ち返って見てみれば、「Pちゃん」のエピソードがいかに目的と手段を違えていたかが分かるはずである。
 彼らは最初に、「豚」に「Pちゃん」という名前を付けた。その「豚」を、「多くの中の一部」ではなく、「多くの中のたったひとつ」と位置付けてしまったのである。そこから、「Pちゃん」は「異質」ではなくなった。彼らと同じように、固有の名を持つ一個体になった。
 その瞬間、彼らは「同質」となったのである。
 家畜として育てる? 家畜として食べる?
 瞬く間にその目的は崩壊するはずである。人間は、「同質」を取り込むことに、強い嫌悪を感じるのだから。



 「名前」は、支配だ。
 そんなことを思うと、すっと、冷たいものが身体を通り抜ける気もする。
 生まれたその瞬間から私たちは、「名前」を与えられているのだから。

 「名前」は、愛だ。
 そんなことを思うと、じわりと、心に温もりが染みる気もする。
 生まれたその瞬間から私たちは、「名前」を与えられているのだから。

 支配、か。愛、か。
 こう並べてみて、ふと思う。
もしかすると、両者は同義なのかもしれない、と。