「「正しさ」を掴み取れ!!」 政治経済学部三年 井守健太朗

2014年は各地で自然災害が発生した。広島県の豪雨による土砂災害被害、御嶽山の噴火と、どの自然災害も痛ましく被害は甚大なものとなった。自然災害は何も今年のみ発生しているものでは決してない。「10年に1度の大雨または暴風」―特別警報が新たに設置されたが、既に数回、この警報が出ている。その都度我々は命を守るための対策を講ずることに追われ続けている。しかし、その速度以上に、自然災害の猛威は我々を襲い続けていることも、また事実である。政治に目を移せば、2014年は集団的自衛権の是非が活発に議論された年であった。安倍政権は政権担当者として、閣議決定に対する説明を国民にも世界に対しても行い続けているが、未だその議論が国民の間で終息する気配は見えない。「決められる政治」の前に、国民の世論は分断され、誰もその分断に対して責任を取ろうとしていないのが現状だ。
頻発する自然災害の被害への対策、集団的自衛権の是非を巡る分断化された議論。私たちにとって、何が「正しい」ことなのか。被害に苛まれ続ける自然災害と、そもそもの方向にまとまりが付かない集団的自衛権の議論は、そんな漠然とした不安と疑問を国民に抱かせるには十分な出来事だったと言える。本コラムにおいてはこの2つの問題を取り上げながら、現代日本における「正しさ」とは何であるかを追究していきたい。
まず、自然災害について。各省庁は、国民に危険を周知し、意識的に危機感を持つことを促している。先に挙げた特別警報は最たる例である。しかし、命と生活は守られ続けない。政治が責任倫理を問われる場所であるとするならば、命と生活が守られていない状況が終息しないということのみで政府の責任は問われ続けるべきだ。
「正しさ」とは、その指標となる目的が予め定められた上で、目的が達成された形で結果が伴わなければ証明されない。自然災害の被害への対策における目的とは、「命と生活が守られること」以上のものではないはずである。対策とはこの目的の達成のために行われるものだが、繰り返しになるが結果は十分に達成されているとは到底言えない。目的が結果を以て達成されたことを示す―これが「正しさ」の一要件である。
他方、自治体(政治)レベルでの、国民に危機感を持たせるための取組には限界があるのではないか、そうとも感じる。御嶽山の噴火では、ヘルメットの着用と懐中電灯の常用が登山客に周到されていないことが問題化された。土砂災害では、危機管理体制が再度問題化した。もちろん、政治には結果責任が問われる。しかし、「正しさ」にはもう一つの要件があることも忘れてはならない。それは、過程における国民が行うべき「正しさ」の確保である。具体化しよう。①目的の形成、②目的達成のための行為の具体化。③ ①②に関わる人間の理解と協力の3つである。自然災害の被害への対策においては、どういった形で危機感を具体的なカタチとして行為化すれば命と生活が守られるのかを、国民一人ひとりが理解し形づくられなければならない。その形成に参加し理解できるからこそ、協力して活動に取り組めるし、責任は政府も国民にも生じる体制となる。義務性のないマスコミを通じた呼びかけや、広報活動では限界が露呈している以上、我々が行為を具体化でき、もしものことがあったときに対応し自分たちで命や生活に責任が持てる体制を整えることこそが、政治レベルの責任の取り方なのではないか。
この構造と同様の構造で顕在化しているのが集団的自衛権の是非をめぐる決定プロセスである。そもそも目的から共有化されてない。中国の脅威から日本を守るのか、あるいは平和憲法を守るのか。少なくとも、改正の是非を問うた衆議院の解散を行うことは必要条件ではなかったかと私は思う。どうして、ある特定の集団だけで決定された目的に、その他集団が従うことができようか。政治とは、この分断を取り除く一つの装置であるはずである。それにも拘わらず、いつまでたっても国民全体に目的は理解されず、まとまりと終わりのない論争へと発展し膠着してしまっているのが残念な今の日本の現状だ。
結論に入ろう。「正しさ」とは、「想定通りの過程で事態が帰結すること」そのことなのである。現実が上手く作用しなければ、どんな理論も「正しい」とは言えない。政治のせいと責任を押し付ける国民、提案するアイデアの共有化と定まったことを1から100まで実行出来るほどの緻密さとに欠ける政府。上記の2つの問題からは、両者の「正しくない」姿が垣間見える。そして、その「正しくない」姿は、現状止むことなき様々な政治問題にあたって国民の間での議論を錯綜させ、「正しい」形での解決を阻んでいる。日本政治は「正しくない」―その病因は、政治も国民もどちらにもあるのだ。やはり新たな日本の政治と行政の形は問われ続けなければならない、改めて現状の社会を見て確信を深める。
最後に、「正しさ」とは何かに迷う多くの人にもぜひ、本コラムの趣意を共有化してもらいたいと強く思う。「正しさ」は所与のものではない、見つけ創りだしていくものだ。現代社会は何が正しくて何が間違っているのか分かり辛く、生きづらい社会であると思う。しかし、分かり辛いからこそ、自分たちでその場その場で目的を形成する必要が生まれる。どんな人間が、どんな背景がその場での組織、個人の目的の形成を左右するか分からない。その作為は、新たな出会いや創造性に満ちている。失敗のリスクも大きいだろう。しかし、運と実力次第では、可能性に開かれた社会でもあるのだ。
熟慮された目的のために全力を果たし、完遂せよ。「正しさ」は我々の手で掴み取るものなのだ。