「フード」教育学部一年 山口宇彦

 東京では幸か不幸か、世界中の味を堪能できる。早稲田大学の周辺にも、中華料理、インド料理をはじめ、イタリアン、フレンチ、タイ料理、沖縄料理と様々なジャンルの料理が集まっている。私もつい最近北海道銘菓の一つ、丸成バターサンド(知らない人はぜひ食べていただきたい。バターとレーズンの絡み合いが絶妙である)を池袋で買って、故郷へのノスタルジーを刺激する味を堪能した。そしてこう思ったのである。

「ああ、これを北海道で食べるともっと美味かろうに。」

 イギリスで紅茶をたしなみたい、イタリアでパスタをたいらげたい、ドイツでビールで乾杯したい…。誰もが持ったことがある感情かもしれない。日本というレベルで考えても、博多でラーメンをすすり、名古屋で味噌カツにかぶりつき、北海道で海鮮丼を食べておなかを満たしたいと思う人は多いだろう。しかし、さきほど言ったように実はこれらの食べ物は十分東京で堪能できる。それどころか、ミシュランガイドブックで最も星のついたレストランが多い、「美食の町」東京であれば、より手軽により洗練された料理を味わえるかもしれないのだ(反論は大いにあると思うが…)。それでもなぜ人々は本場で食べることを望むのだろうか。

 答えるうえでヒントとなるのが、「風土」の問題だろう。和辻哲郎は自身の著書「風土」の中で、風土を自然条件によって作り出された人々の精神や生活、文化としている。砂漠に住む人は好戦的でモンスーン気候に住む人々は忍従的といった話である。自然によって人間の生活が規定される。これは生活の最も欠かせない営みである食事にも当てはまるのではなかろうか。
 食事とはそもそも、その地域でとれる食材を使用したものだ。狩猟・採集の時代から、農耕の時代になっても、保存技術が発達するまでは、食材は基本的にとれた場所で調理され、そこで人々の空腹を満たしていたのである。現在盛んに叫ばれている「地産地消」が自然と行われていたのだ。その土地の空気・水を浴びて、すなわち風土の中で育った食材は、風土の中で作り上げられる調理法でこそ、その美味を最大限発揮し、その住民達に愛される食事足り得るのだ。逆にいえば風土の中で育たない食材は、どうしても味わいは薄れ、またその風土の中で食べなければどこか物足りないものとなるのだろう。
 だからこそ我々は、名物と呼ばれる、風土と密着した食事を本場で食べることを望むのだ。活気あふれる広島で食べるお好み焼きこそがお好み焼きのおいしさを一番体現し、かまくらの中で体を温めながら食べるきりたんぽが、秋田の心の味であり、魅惑的なパリのレストランでワインを飲みながらフレンチを食べることで、こころゆくまでフランスを満喫できると感じるのだ。それは感じ方の問題かもしれない。しかし食事は舌で味わうだけのものではない。見た目、香り、そして周りの雰囲気。全てがそろってこそおいしく味わえるのだ。
 
 翻って現在、東京で全てのものが食べられる状態は、食材にとっても、食べる人にとっても不幸な話である。食材は風土の異なる東京で食されるために、自らの力を最大限発揮出来ないだろう。食べる人も、味だけで満足せざるをえないのだ。もちろん料理人の腕が悪いと言いたいわけではない。ただただ環境制約の問題なのだ。食材はその地域でとれたものをその地域で食べることが健康にもよいし、味わい深い。

 食材は作られた場所でこそ、真の実力を発揮できる。それを知っているからこそ人々はわざわざ地方や外国に出向き、本物の料理を味わいたいのだ。

 夏休みは、特に社会人にとってはあっという間である。しかし遠くにおいしいものを食べに行くことはきっとおなかだけでなく、心も満たしてくれるだろう。今年の夏は猛暑続きと聞く。いつもはコンビニで買って済ます冷たいうどんやそばを、香川や長野ですすってはいかがだろうか。そこで味わえる「風土」と「Food」は長旅の疲れをもいやしてくれるだろう。