「議論って?」政治経済学部一年 緒方東吾

そういえばこの間靖国神社で「みたままつり」があった。毎年およそ三十万人もの人が参加する、東京の夏の風物詩である。様々な催しが行われ、多くの出店が軒を連ねる。境内へと続く道はたくさんの人でごった返す。中学生と思しき集団や、家族連れ、もちろん二人連れの男女もいる。丁度その辺りの時期だったろうか、友人たちと話していると、ふとこの「みたままつり」の話になった。すると友人のひとりがこう言った。「『みたままつり』って英霊を祀る為のお祭りでしょ?なら、楽しむために行くのはおかしいでしょ。祭りの趣旨分かってんのか?」
この一言から議論が始まった。この発言の是非、祭りの話から靖国問題に至るまで。その場には様々な考えを持つ友人が居た訳であるが、私たちの意見が一つにまとまる事はない。つまりその場に居た者の総意なるものは形成されなかった。考えてみればこれは当然のことである。価値観は人それぞれなのだから。
では、何のために議論は行われるのか。議論の究極的な目標は、やはり議論に参加した者の総意を形成することだろう。しかし、この実現可能性は低い。似た考えを持った者しか議論に参加していないのなら話は別だが。議論の現実的な目標は、多様な価値観を知る事だと思う。自分とは異なった価値観の人と意見をぶつけ合うことで、今まで自分が気付かなかった観点や自分の知らない世界を知ることが出来る。皆が多様な価値観を知れば、究極目標である“参加者の総意形成”に近づくことは出来るだろう。
しかし、最近では、「議論」とはとうてい言えないような「ギロン」をよく目にする。テレビでも、ネットでも、何かしらの会でも。現在日本の至る所で見受けられる。「ギロン」とは意見のぶつけ合いの無い、他者の価値観を受け入れようとしない者たちの話し合いのことである。「ギロン」をする人は、自分と同じ考えの人が居れば同調するが、自分とは違う意見に耳を傾けようとしない。ただ自分の考えを述べ続けるだけである。こんなことならテープレコーダーでも出来る。「議論」の究極目標が総意の形成であるのに対し、「ギロン」の目標は自分(たち)の意見の再確認である。これを聞くと、あなたは特定の思想に偏った人たちの集団を思い浮かべるかもしれない。例えば左翼あるいは右翼と呼ばれるような人たちが集まって、自分の思想についてひとしきり語り合い、周りの者も頷き補足をするだけ。何とも自己満足な話し合い。生み出すものは何も無い。
もしあなたがそう考えているのなら、しかし、もしかしたらあなたも「ギロン」家予備軍かもしれない。右翼、左翼などとレッテルを貼って、端から彼らの価値観を遠ざけている可能性があるからだ。「議論」に於いては個人は総て対等な立場である。どの価値観にも貴賤は無い。個人個人の考えには確かに特定の思想が入っていることもある。しかし、それですらも忌避されるべきでない、自分の意見と同等のものなのである。
 「弁論は人格の発露である」。とある雄弁会の先輩はこう言った。私はこれに大いに賛成であるし、これをこう言い換えたい、「発言は人格の発露である」、と。発言には発言者の考え、価値観、人生の背景などが裏打ちされている。相手の発言を尊重するのが議論への、そして何より相手への誠実な態度であろう。議論とは相手の価値観を尊重したうえで自らの価値観を表出する場である。価値観の対話である。決して自分の意見を言うばかりになったり、相手の意見を聞かないなんてことになってはならない。