「悼み」 法学部二年 吉原優

 去年の9月、私は“2人の家族”を喪った。

 最初は、祖父だった。
 長年、彼は癌を患っていた。
「もう長くないだろう」
 そう、祖父と暮らす叔母から連絡が来たのは、夏の始まりの話だ。実家があまり好きではない母が、その時ようやく重い腰を上げ、実家に頻繁に帰るようになった。

 次は、長年可愛がっていた飼い犬だ。
 昨年かその少し前に、彼女は腎臓を悪くした。
「犬はね、10歳過ぎるとガタがくるものよ」
 そう言って、落ち込む私の母を励ましていたのは、13歳の犬を飼っているご婦人だった。 なるほど、私の犬はその時11歳。それでも彼女は凛とした老犬だった。

 2つの“死”を、比べることは馬鹿げている。まして、人間と犬の死など。
 そんなことは、理解しすぎるほどに理解しているつもりでは、ある。


 以前、「LOVE」と「LIKE」の違いについて書いた時に、異質性と同質性の話をした。「愛する」時には異質性を感じ、「好き」な時は同質性を感じる、という話だ。
 ふと、その文章を掘り起こして読んだ時、私は笑いそうになった。「I LIKE dog.」そんな例文を挙げて、自分が“犬”が異質か同質か論じていたことを思い出したのである。

 異質か、同質か。
 死を悼むその時にさえ、その疑問は、私を睨み付けてきた。


 比べずにはいられないのである。
 19年間、ぽつりぽつりとしか思い出のない祖父。
12年間、ほとんど毎日のようにその温もりを感じていた、彼女。
日に2回と思い出してしまうのが、紛うことなく後者だということは、果たしてお分かり頂けるのだろうか。

私は、冷血な人間かと、そう思ってしまうことがある。
 正直に言えば、祖父が死んだ時、私はこれっぽちも哀しくなかったし、悼みもしなかった。しかし、愛犬の場合はどうだったろう。驚くほどに泣き暮らし、油断をすれば涙が溢れ、今でも唐突に思い出しては顔を覆うほどに号泣してしまうとは。

このいっそ痛切なまでの対照に、私自身でさえ大いなる違和感を覚えている。
そして、そんな私もやはり、同質性と異質性の曖昧さに囚われているのかもしれない。

 たかが犬。そう言って私の嘆きを嗤われることも、仕方がないのは確かだ。犬を“人”として扱うことに、眉を潜める人が少なからずいることも、私は理解している。犬を家族だと思う感覚は、本当に経験しなければ分からないもので、それは本当に、想像に容易い。
 実際、私自身がこうして12年間という歳月を彼女と過ごさなければ、おそらく犬に対して惜しみない愛情を注ぐ人間を、異常だと思っただろう。

 だからこそ、思わずにはいられないのである。血の繋がった、いわば何よりも確かな同質性を持った祖父と、血も繋がらなければ、そもそも種さえ違うただの“犬”と。
 倫理観が強いる異質への違和と同質への共感は、未だに私の中に渦を巻いている。

 異質か、同質か。
 私は何を以て彼らの死を考え、何を以て彼らの死を悼めば、この違和感から――罪悪感から――、解放されるのだろうか。



スペインの哲学者、ミゲル・デ・ウナムーノが、著作「人生の悲壮感」の中で、こんな風に記しているらしい。
『愛は幻想の子であり、幻滅の親である。――中略――愛は死に対する唯一の医薬である。というのは、それが死の兄弟だからである』

 この“愛”は、一体どちらだろう。