「大阪にて」 法学部2年 中村健太


 私は、今愛すべき故郷大阪にいます。そこで、何をしているのかといいますと、なじみの友人達と麻雀を打ったり、酒を飲んだりなどしつつ、読書にふけっているのであります。
われながら、はたから見ればあまりパッとしない夏休みであったろうなと思いつつ、自分としては比較的満足しています。なぜなら、読書にふける中で自分として、得たものがあったと感じるからです。この夏は心落ち着く故郷でとにかく読書にふけろうと思い立ったきっかけは、我ながら恥ずかしいものでした。それは、同期に常に議論に負けるのは常日頃、物事を根本的に深く考えるという事を怠っているからであり、この夏休みの恵まれた時間にそれを行って議論に徹底的に強くなってやろうというものでした。
 さて、これが実に私にとってはなかなか骨の折れる作業だったのです。これまで、親や学校に言われる事にあまりに「素直」であった私は、裏を返せば自分自身で思考することを怠っていたのです。親にも誰にも反抗した事がなかったのですが、良く考えればそれは「うえのひとのいうこと」=権威=正義に従っていれば、なんとかなるという一種の依存でしかなかったのです。本来であれば、反抗期として自我が目覚め、そうしたものを疑い、自身で思考するようになるべき時期にそうなっていなかったのです。ある意味この夏はその総清算とも言えそうです。
 とりあえず、まず私が取り組んだ事は、あらゆる人間にとってあてはまる「絶対的価値」の探求でした。言葉で説明するのは難しいですが、いわばこれを実現できればいかなる人も幸福になるというようなものです。社会の理想の状態として、万人が幸福と感じる事の出来る社会と捉えていましたから、まずどんなひとでも幸福と感じる理想の生き方のようなものがあると仮定し、論理的に探してみようと思ったのです。しかしながら、やはりそのようなものはやはりマトモに考えれば存在しませんでした。ひょっとしたら、アリストテレスとかの古典を読めばヒントがあるかもと思ったりもしましたが、読めば読むほどそのようなものは、存在しないと認めざるを得ないようになりました。結局当たり前の結論が導き出されました。価値は人によって異なると。個人個人がよき生き方と思えば、それはその人にとってよき生き方であり、価値であると。また、同じ人であっても、年齢や経験によって変わるということを。具体的に言えば、はたから見れば働きづけでも、本人がもし本当に好き好んでやっていれば幸せと言えるし、同じ人でも若いときと所帯を持った後では幸せの尺度は変わるという事です。だとすれば、最良の社会の状態とは何か。それは、個人が自己の価値を探求する機会が最大限に提供される社会だろう。
かくして、他の会員に遅れること数ヶ月ようやく議論を行う最低限のベースとなる自分なりのよき社会についての認識を私は見つけたのでした。また、自分自身にとっての価値について考える素晴らしい機会ともなりました。このような機会を与えてくれた雄弁会は改めて感謝する次第です。雄弁会の素晴らしいところは物事について根本的に自身の力で考えさせる事といえるでしょう。