「Where are the 安心感?」

商学部1年 花房勇輝

安心感。

それはどんなものなのか、どこで得られるのか、それを言葉で説明するのは難しい。
しかし私たちは感覚的に、それがどんなものなのかをわかっている。どこで得られるのかも知っている。ただし人によってその種類が違うだけだろう。

私の場合、安心感を最も得られる場所は家庭であった。家族で過ごす時間、接する時間には、何か大きなものに包み込まれているかのような安心感を感じることができる。それはやはり、人生の中でもっとも接してきたのが家族であったし、私に無条件の愛を与えてくれた唯一の存在であったからだろう。

もちろん、安心感を得られる場所はいくつもある。それは昔ながらの地域の商店街かもしれないし、学校の教室かもしれない。気の合う友人と過ごしている場所かもしれなし、自分の部屋で一人で過ごす時間なのかもしれない。もしかすると、ミクシィのようなインターネット上の架空のコミュニティなのかもしれないが。


このように、精神的な居場所があると感じられることだけが、安心感ではない。将来の予測可能性というのも重要な要素であろう。
例えば、フリーターや非正規雇用、日雇い労働などの不安定な職に就いている(就かざるをえない)人たちは、将来にわたっても生活をまかなえるほどの収入を得られるという保障はない。将来の生活ができるかもわからないような状況では、安心感などとても抱けない。


価値観、という要素もあるかもしれない。何かひとつの価値を信じているとき、安心感というものも生じるのではないだろうか。
例えば、宗教。宗教は信者に対して、何かの価値を与える。これを信じるのが信仰である。宗教にはこの「信じること」がその核心にある。哲学と宗教は同じく真理を求めるが、宗教の追求は自らの「悟り(さとり)」や「救われる」といった事で終わる。哲学はそれ自身が認めているように、終わりがない。しかし宗教ではハッキリと何が真理か示される。それを信じることができれば、人はある種の安心感を感じることができるのではないか。


安心感。それがどのようなものであれ、それを感じ、その安らぎのなかで生きていけるのはやはり尊いことであろう。
安心感を抱けなくなってしまうと、精神的に不安定になってしまう。そして、攻撃性が生じやすくなる。それが外部に向けられたとき、最悪の場合、暴力として他者に向けられてしまうのだ。


安心感をすべての人が抱ける社会。それを生涯にわたって抱き続けられる社会。
それを実現できたとき、この社会は精神的な面でより豊かになれるであろう。