第三弾:「同情すらしない。」

法学部1年 小島 和也

第二弾においては、幼児虐待の解決の方向性としてあくまでも家族内で育児を担保しながら、地域で補助を行ってゆくことを示した。ではどうして幼児虐待が起こってしまうのであろうか、今回はこの原因を分析したく思う。

幼児虐待が起こっている原因とは?

幼児虐待はどうして起こってしまうのか。その原因は、単に親が子供を育てる責任を放棄してしまったからなのであろうか。いや、そうではない。幼児虐待の最たる原因は
       地域からの孤立である。
現に厚生労働省の調査によると、54,2%が「地域からの孤立」によって虐待を行い尊い子供の命を奪っている。

地域共同体の崩壊〜都市化による近所関係の変化〜

ではどうして地域からの孤立を生んでしまうのであろうか。平成17年度版国民生活白書によれば「近所づきあいを行ってはいるがそれほど親しくはない」また「ほとんど近所づきあいを行っていない」という方が全体で66.2%であることが分かった。逆に、「親しく近所づきあいを行っている」と答えた人の割合を地域別に見てみると次のような結果が明らかになった。農山漁村地域が52.9%と最も高く、次いで商業地域が41.8%、集合住宅地域は最も低く、20.8%という結果となった。ここで明らかなように都市部に多い集合住宅地域においては近所関係が希薄化しているのである。

都市ほど近所づきあいは希薄なのか?

M.ウェーバーは、都市の定義を考察する過程で、経済学的本質と社会学的本質を区別してその特徴を述べた。経済学的特徴として重視したのは「市場」や「非農業」という点であり、社会学的本質として強調したのが「都市以外の隣人団体に特徴的な住民相互間の人的な相識関係が欠けている。」という特徴であった*1
 その後も都市化と近隣関係の関連についてはシカゴ学派を中心として、さまざまな議論が展開された。代表的なものとしてL.ワース(1965)のアーバニズム理論がある。これによれば、都市(人口量が多く高密度で異質性の高い集落)においては、分業が進み、全人格的な人間関係の比重は低下し,貨幣や利害を介した部分的で一時的な第二次的接触に置き換えられ、家族や近隣の結びつきも弱まっていく。そしてその結果,都市においてはリアリティ感覚が失われ,都市はばらばらな砂粒のような個人からなる大衆社会となる。都市化とは、社会の解体を帰結するということになるとL.ワースは主張した。
このウェーバーとワースの指摘した「都市ほど人間関係が希薄である」という都市の特徴を立証すべく2つの調査が行われた。まず1つ目は、大谷信介によって行われた。この調査結果によれば、都市に多いマンション居住者の近隣関係(隣近所との関係)が希薄であることが分かった。もうひとつは、2003年堀江によって行われた。この調査では家族・親戚と友人のサポート関係について調査された。これによれば、都市に比べて村落のほうがより共助関係が築けていることが明らかとなった。
以上示したように都市においては過密により地域においての共助関係が少なくなっていることが分かった。ではどうして、都市に人々が流入して行ったのであろうか?それは地域産業の衰退により、人々が都市へより魅力のある労働を求めて流入していったからである。

都市への人口流入

都市への人口流入はどのようにして起こったのであろうか。その流れを歴史的に分析する*2


      〜高度経済成長の幕開け〜
1950年後半より本格的に始まった高度経済成長。このとき国家は重化学工業化政策を推奨し、年率実質経済成長10%という驚異的な経済成長を達成した。しかしこの間、都市部において若年層を中心とした雇用が急激に拡大し、地方の農家の長男以外の新規学卒者は雇用の急増した都市部製造業等に大量吸引された。これが都市への人口流入の始まりであった。この都市への人口流入は逆に地方においては過疎を生み出した。 


      〜1962年全国総合開発計画(一全総)〜
そして、このような問題を解決すべく1962年全国総合開発計画(一全総)が打ち出された。これは重化学工業化を軸とした資本蓄積の一層の進展のために、広域的な国土、資源の利用が必要不可欠であった。この要望に答えるという意味でもこの計画は、工業生産基地を地方に進出、拡散させそれにより資本と人口の分散を図ろうとしたのであった。例えば一全総においては、基本目標を「地域間の均衡ある発展」と定めており、その開発手法を「拠点開発方式」によるとしていた。これは、拠点都市に拠点産業たる素材供給型重化学工業(=鉄鋼・石油精製・石油化学・アルミ精錬・電力等)を誘致し、その経済波及効果で他の産業を発展させ、それによって周辺地域の開発を進め、住民の所得向上を図り、自治体財政収支の増大を待って住民福祉を向上させるというものです。このような中、各自治体は地方に展開する工場群を何とか自分の地域に引き込もうとした。このような外来的地域振興策がとられ始めたのであった。しかしながらこのような工業誘致には落とし穴があった。企業はその目的が利潤の追求であり、経済合理性を最優先したため誘致するにも立地条件のよい、投資効率が極限まで高い大型港湾や大消費地の近郊しか誘致できなかったのである。ゆえに太平洋ベルト地帯のように投資効率の高い地域を以外はなかなか工場誘致を行うことができなかったのである。
よって、誘致に失敗した自治体のほとんどが巨額の負債と売れ残った工業用地を抱え財政危機に陥った。これにより地場産業は急速に衰退し、さらには周辺の農村から労働力を吸引したことから、大規模な都市への人口流入が起こったのであった。


      〜財政資金による地域振興〜
工場誘致による地域振興に挫折した自治体が次に期待したのは、高度成長によって大幅な税収増を実現した中央政府から豊富な財政資金の供与を受け、それによって地域経済を活性化させようという「財政資金による地域振興」であった。
この財政資金の中心となっていたのが、地方交付税交付金でした。制度発足当時(1954年)は20%であった交付税率も、1967年には32%まで上昇し、さらにはその財源である所得税法人税、酒税の国税三税も企業の収益向上を反映して拡大し続けたことから、交付税額は加速度的な増大を遂げた。その結果、工場誘致に頼らなくとも、自治体は年々その歳入規模を拡大することが可能となり、同時に様々な事業展開をも可能にしたのである。
 また、この地方交付税交付金は主として自治体財政を潤したが、これと並行して民間経済を潤したのが莫大な公共投資でした。1960年、当時の池田内閣は国民所得倍増計画を発表、この計画遂行のため、公共投資に努めることとなった政府は、翌年に4,522億円(前年度比56.5%増)という大型の公共投資を実施した。
 以来、この公共投資は平均すると年率20%前後という高いピッチの伸びを続け、これによって地方の土木建設業界は、かつてのような工場進出による関連工事等をあてにしなくとも、年々、その事業規模を拡大することが可能となった。
 こうした状況を背景として、飛躍的な拡大を遂げた地方土木建設業界は、やがて地域雇用を創出し、資材や物資を調達することで地域の基盤産業としての地位を確立してきた。国の財政資金は、一方で自治体財政を、またもう一方では民間経済を潤し、やや一面的ではあるが、地域経済に一定の貢献を果たしたと言える。


      〜石油危機〜
ところが、石油危機を境にこのような財政投資を行うことができなくなる。高度経済成長を背景とした財政資金による地域振興によって、ほとんどの自治体や民間の経済界は、自助努力することなしで東京との所得格差を縮め、豊かさを相対的に引き上げることが可能となった。しかしその結果、自治体も経済界も財政資金依存型の体質に慣れきってしまったのである。
そこに1973年の石油危機が起こり、高度成長は終焉。それに伴い国の財政状況は極度に悪化し、一転して財政再建が喫緊の課題となった。
こうした苦境に追い込まれた地方に対し、さらに追い打ちをかけたのが、土光敏夫氏を会長として発足した第二次臨時行政調査会(1981年)であった。
危機的状況となった国家財政を再建するには、増税して歳入を増やすか、「小さい政府」を実現して歳出を減らすしかない。土光臨調が選択したのは後者であった。いわゆる「増税なき財政再建」を目指したのである。これによって、地方への財政資金は格段に少なくなっていったのであった。


      〜3回の過疎対策(地域雇用創出、福祉の充実)〜
高度成長時代後期、都市部に労働力として人口が流入し農山村、とりわけ中山間地域においては、人口の著しい減少に伴って地域社会における活力が低下し、生産機能及び生活環境の整備も他地域に比べて低位であることから、何らかの対策を緊急に講ずる必要性に迫られていた。そのため1900年代までに3回の過疎対策がとられた。
その中でも1980年に制定された「過疎地域振興特別措置法(以下「振興法」)」では 長期にわたる人口流出によって引き起こされた地域社会の機能低下や、生活水準・生活機能が他地域に比較して未だ低位にある状態を改善することに重点がおかれた。そして、総合的かつ計画的な振興施策を積極的に講ずることにより、「これらの地域の振興を図り、もって住民福祉の向上、雇用の増大及び地域格差の是正に寄与すること」を究極的な目的とした。
また都道府県、市町村が振興計画を策定して過疎対策事業を推進することとされ、前・後期5年ずつの計画に基づいて実施された事業費総額は、交通通信体系の整備及び産業の振興を中心に17兆4000億円の巨額にのぼった。
これによって過疎地域市町村は公共施設整備を中心とした地域振興が進められてきた。 こうして1970年以来、延べ20年間にわたってとられた過疎対策は、公共施設等の整備を中心として着実な成果をあげたものの、日本経済が第2次石油ショックを克服し、新たな東京一極集中が始まると同時に、再び人口減少に拍車がかかる等、必ずしも有効な施策とはなり得なかったのが実情であった。


      〜最近の現状〜 
こうした事情を背景として、1990年3月末日限りで10年の期限を迎える振興法の継続、拡充を求める声が強まり、同年4月、新たに「過疎地域活性化特別措置法(以下「活性化法」)」が制定された。
同法の目的は、「人口の著しい減少に伴って地域社会の活力が低下し、生産機能および生活環境の整備等が他地域よりも低位にある地域について、その活性化を図り、もって住民福祉の向上、雇用の増大および地域格差の是正に寄与すること」とされている。具体的には、財政、金融、税制上の特別措置は基本的に引き継がれたほか、新たな課題に対処するために、過疎債、基幹的市町村道にかかる都道府県代行整備事業等について拡充が図られ、高齢者福祉センター等の整備にかかる規定も新設された。
特に過疎債については、従来、発行を公共施設の整備に限定してきましたが、各地で地域産業おこし事業が取り組まれたり、リゾート開発が国の重要な地域開発政策に位置づけられ、しかも、それら開発の事業主体として第3セクターによる開発方式が広まったことに対応し、地場産業・観光・レクリエーションにかかる事業への出資を過疎債によって賄えるようにする等、制度の拡張がなされた。
ところが、こうした過去3回にわたる過疎対策立法が、いずれも10年間の時限立法であり、なおかつそれらが断絶することなく延長されてきたことから、多くの過疎自治体が、過疎債等の特別措置=「あって当然」という感覚に陥り、過疎法が出来たころの危機感が薄れてしまった。それゆえ、安易に過疎債に頼る傾向が生み出され、各地で公共施設等の乱造を生み出したのである。

結び。

以上見てきたように、都市へと流入する人の流れを止めることのできない現状がある。では人々が都市に流入し過密がさらに進んで人間関係の希薄化、近所関係の希薄化が起きないようにするにはどうすればよいのであろうか。さらに現在都市において暮らしている人々が自らの故郷(それまで暮らしていて、近所の人と知り合いであるため故郷に戻れば人間関係の前提がある。)に戻ってゆくためにはどうすればよいのであろうか。

     それは、その地域のコア産業の発展である。
地域経済2005に示されているとおりその地域の産業が発展することで雇用が増大する。つまりその地域に人々がIターン、Uターンを行うことで消費が拡大しそのほかの産業の発展も見込めるのである。つまり、地域の産業発展が娯楽施設や雇用を生み出し人々がその地域に留まるインセンティブになるのである。それだけではない。その地域の産業の発展は税収の増加にもつながり福祉や教育の充実にもつながるのである。
このように都市の過密をなくすためには、そして人々が長年同じ地域に住み人間関係の前提(そもそも知り合いであるという関係性)を築いてゆくためにはまず、

      地域の産業の発展が必要なのである。


では、次回これまでの行われてきた地域の産業復興政策を提示してゆく。



このコンテンツは連載形式です。連載一覧は、こちらへ→http://www.yu-ben.com/2006zenki/contents/top%20page%20all%20members.html早稲田大学雄弁会HP内)

*1:M.ウェーバー、「都市の類型学」世良晃志郎訳

*2:過疎問題総合研究所参照/ホームページアドレスhttp://homepage2.nifty.com/kaso-ken/