ヒトラーは悪魔か人間か?                        

社会科学部一年 中村翔

もう公開は終わってしまった、映画『ヒトラー〜最後の12日間〜』。
この映画はユダヤ人大虐殺など悪魔的人間として認識されている独裁者ヒトラーではなく、接する人に気配りや優しい言葉をかけてくれる、ヒトラーの意外な側面を主に描いた映画であるそうです。
およそ人間とは思えない残虐さを持つ人間として絶対視されがちであるヒトラーですが、実は我々と変わらない一面や感情をもっていたようであるということに、私は「ヒトラーの残虐性も実は私たちの内にあるのではないか」を考えてしまいます。

ユダヤ人虐殺で悪名高いヒトラーですが、実際に収容所で毒ガスシャワーなど虐殺の執行していたのは、当時ゲシュタポユダヤ課長であったアイヒマンという男でした。アイヒマンは敗戦後、20年に渡り南米に逃亡していましたが、その後捕まってイスラエルで裁判を受けました。
法廷でユダヤ人大量虐殺という罪を問われたときの彼の応えに、当時人々はそれを正当化したる恐ろしい発言か、はたまた悲嘆の懺悔を期待しました。しかし彼は「ただ命令に従っただけです。自分は命令の運搬人に過ぎません」と主張し続けたのです。
人々はその応えの平凡さに驚きつつ、卑劣極まりない責任逃れであると激昂しました。しかし彼のあまりに頑なな主張に、そもそもアイヒマンは責任逃れをするほどに責任を感じていたのだろうか、という疑問が呈されたのです。

そこで考えたいことは、
アイヒマンに見られた残虐性は、特殊な人間しか持ち得ないものなのだろうか?そうであるなら、では一般的な人間ではどこまで命令に従い、己が残忍であることに耐えられるのだろうか?」ということです。

実はこの問いに対して、「人は誰でもアイヒマンになり得る」ということを実証した、
アイヒマン実験』と呼ばれる恐るべき実験があります。この実験の目的は、「人はどこまで命令に従い、どこまで残酷になれるのか」でありました。これは心理学者ミルグラムによって行われ、その実験は以下のように行われました。

まず部屋を二つ用意し、被験者は「教師役」と「生徒役」に分けられ、それぞれ別々の部屋に入れられます。そして「生徒役」の部屋には電気椅子があり、そこに「生徒役」の人物が縛り付けられます。
しかし実際には、この「生徒役」はサクラであり、実際に電気椅子に電気は流れない、つまり、一般の被験者は皆「教師役」なのです。また一方の部屋には、「教師役」と共に‘権威がある’実験の責任者が入ります。
そして次に生徒へ問題が出され、その応えは「教師役」の部屋にランプで示され、間違っていれば罰として電気ショックのボタンを「教師役」である被験者が押していきます。ここでの重要なことは、その電圧は間違えるたびに上げられていき後戻りがないことです。
生徒役はサクラであり、ゆえに問題への解答はことごとく不正解であり、教師役はそのボタンを押すことを要求され続けます。さらに電圧が上がっていくにつれて、生徒役は苦痛の叫び声を上げ、「先生、ここから出して!」と絶叫し、最強の450ボルトのボタンを先生役が押すときにはもはや声すら上げなくなる(無論、これは生徒役・サクラの演技)、といった設定で行われました。

その結果は驚くべきものです。実に62.5%もの被験者が、実験者の指示に従い、「生徒役」が泣こうが喚こうが、ボタンを押してゆき、送電器の‘最高レベル’のショックに達するまで「生徒役」を罰しつづけたのです。
もうわめくこともできず、何も応えられなくなった「生徒役」=人間に、それでも質問をし、応えが返ってこないというので電圧を上げてゆく人間・・・。

この実験の恐ろしいところは、ごく平凡な一般人であっても、権威ある者からの命令であれば、たとえ不合理な命令であろうと、己の常識的な判断を放棄してその命令に服従してしまい得ることを示していることです。
そして次第に関心は権威に従うことに注がれて、その行為の結果を気にしなくなるのです。そこに責任の意識はほとんどありません。

この実験結果に、ミルグラムはこう言いました。
「われわれは、命じられたからするのでもなく、まして命じられた内容が善だからするのでもない。権威が命じるからするのである。そこではもう何をするかは問題ではなく、誰が命じているのかだけが問題なのである。」

映画『ヒトラー〜最後の12日間〜』で描いているヒトラーの人間的側面の部分には、「美化しすぎだ」「そんなことはない」などといった非難もあるようです。しかし、誰もがアイヒマン的心理・行為を内包している、つまり私たちと本質的には変わりないという以上の結果を鑑みるに、命令する権威の立場にあったヒトラーと私たちも実は本質的には変わらないのかもしれません。