トトロを求めて 小口 翼(人科1年)

 どうも朝から早稲田が煩いなと思ったら受験シーズンだったことを思い出した。今年も平均倍率が10倍強という恐ろしい数字の前に、「昨年引っ掛かって良かった」としみじみ思うのである。受験生諸君には精々頑張ってもらいたい。受かったら好きなもの食わせてやるよ。

 

さて。

 

 東京に出てきて一年が経とうとしている。雑踏の中に生きるとは和順に生きるよりも孤独なものだと思い知った。周りに人間が多ければ多いほど、人は孤独を感じやすくなる。しかし孤独の時間というのもまた価値ある時間なのかと思うようになってきた。

 

 周りから人間が消えることで本当の自分がわかるようになってくる。本当の生活リズムや本当に好きな食べ物、好きな色、匂いなど、自分とは一体どんな人間・動物なのかがわかる。

 

 その中でも特によく実感するのが自分の孤独への耐性である。どれくらい独りで生きて行けるのかが見えてくる。孤独の時間は価値があると述べた後にこの話は不相応かもしれないが、価値があっても長くは独りではいられないというのが人間の性なのだろうと思う。

 

 私の場合は5日くらいが限度なのだろう。5日を過ぎてくるとメンブレし始める。「自分は何の為に生きているんだ」という振り返ってみれば実にくだらない問いと格闘し始めるのだ。事実肯定や過去の美化が罪業妄想に追いつかなくなる。いわゆるメンヘラというやつか。

 

 私なりに生み出した解決策がある。それは旅だ。高田馬場から上野駅か東京駅に行き、特急列車の窓側の一番良い席に乗る。そして雑踏の街(孤独の街)から少しずつ離れて一面が田畑に覆われた美しい田舎町まで行く。適当に決めた駅で降りて、きれいな空気で肺を満たし、美味しいものをおなかいっぱい食べて、また特急列車に乗って帰る。

 

 車窓を眺めている間は、それを理解しているだけで良いから気が楽だ。また空気とはこんなにも美味しいものかと感動するようになった。太宰の真似をして伊豆へ行ったことがあったが、下田で食した胡麻を使った温泉饅頭は絶品だった。どこか香ばしい塩味の効いた生地と甘く濃厚なこしあんの品のある味わいは我が地元信州の酒饅頭を超えていた。また土浦駅の近くで入った老舗の唐揚げ定食は革命的な美味さだった。片栗粉でサクサクにあげられた鳥もも唐揚げはもちろんのこと、付け合わせのポテトサラダのポテ:マヨ比は間違いなく黄金比だったはずだ。佐野で立ち寄った酒屋の日本酒は……

 

 そんな旅の話をし始めるとキリが無いのだが、しかしなぜこんなにもメンヘラが多いのだろうか。高田馬場のロータリーでウェイウェイ騒ぐ連中だってどうせメンヘラだ。孤独への恐怖を隠して騒いでいる。毎日SNSで自分語りや自撮り写真を上げている連中も。自己肯定感、自尊感情というものが足りていないのか。

 

 独りでいる能力はどうやったら手に入るのか。個人主義という文化や制度は進んでいるのに、蓋を開けて見たら人間様は孤独が怖かったという笑えないオチは期待していない。

 

 そういえば自分の心に誰か何かを内在化している人は孤独に強い。ママ、パパ、神様、母国、恋人、嫁、旦那。「僕は独りでも大丈夫だ。ママは絶対に僕の味方だから。」そんな心理を本当に持っているだろうか。「ちょっと気をぬくとその人がいなくなってしまう気がして…」などというのは内在化されているとはいえない。

 

 こういうのを“The capacity to be alone”というそうな。ウィニコット(Winnicott-1971)の学説である。幼い時に誰か良い対象を自己に内在化することでこのcapacityが手に入る。Identity論で有名なエリクソン(Erikson-1994)も発達課題説のなかで同様の学説を展開している。高校の倫理・家庭科レベルでもここまで分析できる。受験勉強とはなかなか万能である。

 

 要は、子供と両親(特に母親)がきちんと「基本的信頼」を結べているかどうか、母親でなくとも何か「良い対象」を内在化できているかどうかが孤独への強さ、いや孤独の時間を肯定し続けられるかどうかを決めるらしい。

 

 ウィニコットの話を出したからには、移行対象説(transitional objects)も紹介しておかねばならない。井原成男という早稲田の発達心理学の教授が本を一冊使ってまで紹介している重要な考えだ(正直、児玉憲典が訳した物の方が詳しくて面白いが、ここは我が母校早稲田大学の顔を立てようではないか)。

 

 簡単にいえば、母親から独り立ちするに当たって「母親らしきもの」を母親の代わりに肌身離さず手にするようになる、ということだ。例えばふわふわなタオルや、モフモフなぬいぐるみなどが挙げられる。

 

 うむ、私のぬいぐるみ好きはこういうことなのか…などと思うこの頃。ここでフィクションの世界を引用してここまでの文章をまとめてみよう。

 

『小学生のサツキと幼児のメイは姉妹です。お母さんは遠く離れた病院に入院しています。お父さんは大学教授で夜まで帰ってきません。ある日、お母さんの体調が悪化したとの電報が届きました。普段はシャキッとしたお姉ちゃんサツキは、泣き出すメイと帰ってこない父親の前に泣き出します。どうしようもなく困って、孤独で、逃げ込んだのはトトロの胸でした。大きくて、ふわふわで、暖かいトトロのところへ逃げ込みました。トトロはサツキにとって、お母さんの代わり(移行対象)だったのです。(サツキは正に現代の若者。普段はシャキっとしているがいざ一人になるとメンブレする)』

 

『生まれてすぐに母親を亡くした源氏は、母親像を求めて多くの女性と関係を持ちます。夕顔とのくだりは明らかにエロスを超越していますが、そもそもこれはエロスではなく、母子の愛の代理※なのです。(源氏も今の男に通ずるものがある。妻は愛する対象なのか、母性の対象なのか。)』

※そもそも性欲の根源は母親にあるという考え(oedipus complex ,Freud)もあるのだが。

 

 

 この孤独にあふれた東京に、トトロはいるのだろうか。夕顔はいるのだろうか。

 

 

 そんなくだらないことを考えながらも、「メンがヘラってる暇はねえんだ」と頬をピシパシと叩いて顔を洗い、干しておいたパーカーを羽織って雄弁会に行く。