"私の思想史〜大学時代〜" 社会科学部2年 鮫島玄樹

 私は、中国史好きが昂じてか、中国哲学の本をよく読んだ。初めは論語などの儒家による本を読んでいたが次第に手を広げ、法家や老荘家の本も読んだ。特に荘子には一時期ハマったものである。その後墨子を好むようになり、彼の儒家批判を理解するためにもう一度儒家の本に立ち返るといったことをしていたら中学高校生活が終わっていた。そして最近は儒教熱が再燃している。もちろん、本分は中国史であったし、他の本を読まないでいたわけではないのだが、中国哲学への興味もそれなりのものであった。
 当時の私の考えとしては、日本人は中国からの影響が何より大きいのだし、漢籍の素養は重要だというものがあったのだが、もちろん世間一般にそう考えられているわけではなかった。むしろ、大学に来てから、西洋哲学をある程度わかっていなければ困るということを知った。私はある意味では勤勉な学生だったが、またある意味では勤勉な学生ではなかったので、高校の倫理の授業などろくに聞いてもいなかったし、わざわざ興味の無い分野の本など見向きもしなかった。こんな風では、カントだなんだと言われてもわかるわけもない。せいぜい名前を聞いたことがあるくらいの感想しか出てこないのである。しかしだからといって放置しておくのもよろしくない。なにせ、大学の授業で、テストで、その知識が問われてしまうのだから。「来期はこんな授業はとらないぞ。」と思いながら、しかし授業を聞くくらいの努力はせざるを得ない。そしてもちろんやる気はでない。それでは理解も進まない。結局単位はもらえたけれども、何が身についたのだろうという感じは拭えない。そんな調子の私であったが、それでもすこしは思うところはあった。何故私は西洋哲学ではなく、中国哲学を選んだのだろうということだ。何も、中国史の延長というだけで中国哲学を好んだのではあるまい。
 人間不思議なもので、大陸の東に住んでいるか西に住んでいるかで大分考え方が違う。私に言わせるならば、中国哲学は言わば人生相談のようなものだ。道徳とその実践を語る一方で、論理性に欠ける部分があることは否めない。一方で西洋哲学は、ひたすら真理を論理的に探求しているように感じる。もちろん完全にそうというわけではないが、大体に於いて双方で求めているものが違うのだろう。「東洋の思想は人生への悲哀から生じ、西洋の哲学は自然への驚異から生まれる。」というようなことを聞いたことがある。確かに、スタート地点が違うのであれば、求めるものも違うのかもしれない。加えて、宗教の問題もあるだろう。中国には人々の精神的支柱となり得るような宗教が長らく存在しなかった。せいぜいが狭い範囲の民間信仰である。そのため、哲学に道徳的な規範を求めなければならなかった。しかし西洋には、古くからキリスト教などの宗教が生活に入り込んでおり、道徳的な規範を人々に与えていた。そのため、哲学に道徳的な規範をそこまで求める必要がなかったのではなかろうか。だから中国哲学は、具体的にああしろこうしろとよく言うのに、西洋哲学はあまり言わないのだろう。こう考えてみると、中国哲学と西洋哲学の差は、その規範性の強弱にあるのではないかと思えてくる。そして強い規範性が、中国哲学に細かな儀礼を規定させ、それに確実に従うことを求めさせるようになったのではないか。一般に言われる中国哲学のイメージも、告朔の餼羊じみた儀礼の重視や、朱子学的な修身の考え方であって、大体このような理解がなされているように思われる。これが、私が中国哲学を好む理由だろうか。釈然としないものを感じる。形式的に過ぎる儀礼にひたすら従うというのは、そんなに好きなことではない。
 そんなことを考えている中、別の考え方もできるのではないかと気付いた。と言うのも、中国哲学の中でも代表格である儒教は、実はあまり厳格に規範に従うことを求めていなかったのではないかということに思い至ったのだ。そもそも、儒教に厳格な規範に従わせるというイメージを持たせたものは、模範を例示することでその規範を示す論語や春秋の書き方と正名主義的価値観、朱子学者によって描き出された、どこまでも厳格に儀礼を尊ぶ孔子の姿であろう。しかし、それでは説明がなかなかつかない教えも存在する。例えば、有名な部類のものであれば、別愛の考え方などがそれである。別愛とは、父母兄弟などの近親の者から、隣人や同郷人というように、だんだんと疎遠になるにつれ、情が薄くなっても良いという考え方だ。この考え方の大事な部分は、父母を主君に優先させることが容認される点である。天下国家の道理を説く儒家が、このような考え方を持つのは不自然だと感じるのは当然のことだ。民を安んじるため主君に仕え、国家を切り盛りしなければならない儒家にとって、斯様な私情は本来適切なものではないだろう。しかし、実際はそれを許しているのである。何故かと言えば、儒教は情を重視するからだ。人であるならば、自身の身内には格別の情を抱いて当然である。儒教はそれを押さえつけることを是としない。孔子は、盗人である父親を役所に突き出した子どもを批判すらした。法に対して正直であっても、自身の感情に対して正直ではないと言うのだ。また、儒教は結果を重視するという特徴を有してもいる。自身の主君に従って殉死せず、旧主を死に至らしめた桓公のもとで宰相にまで昇った管仲に対して、孔子は最上級の賛辞を送っているのである。何故ならば、管仲は旧主に対する節を曲げたが、その結果として桓公を覇者たらしめ、多くの民を安んじたからだ。それをして孔子は、「豈に匹夫匹婦の諒を為し、自ら溝涜に経れて知らるること莫きが若くならんや」と言う。取るに足らない男女が義理立てし、誰にも知られず自殺するというのと(管仲とが)どうして同じにできるだろうか、いやできないと言うのである。私はこれらに、儒教の本来持っていた柔軟性を見いだす。
 では一方で法家はどうだろうか。法家は、儒教の一派である荀子の影響を強く受けた勢力だ。法家を代表するのはなんと言っても韓非であろう。彼は商鞅ら法家の先人たちの業績をまとめ上げ、持ち前の徹底した人間不信と合理主義で以て法家の理論を組み立てた。そしてその結果、法という規範に対して、徹底的に従属することを求めるようになったのだ。これは何も、法に反してはならないということだけを言うのではない。法によって規定されている事以外の何かをすることも許されないのである。法家については次のような話がある。王の靴を管理する侍従が、寝ている王を気遣って毛布をかけた。翌日になって王は、その侍従を処刑したのである。彼の仕事はあくまでも靴の管理であって、毛布をかけるというのは法から逸脱した行為であるからと言うのであった。法家の論理から言えば、これは確かに是となることだ。彼らは、徹底してその論理に従い、感情的な妥協を許そうとはしない。規範に厳格に従うことを求めるという要素が、儒教よりも圧倒的に強いのだ。
 続いて墨家を見てみよう。墨家知名度はあまり高くなく、倫理の教科書でもコラムで済まされていたような覚えがある。しかし、中国の戦国時代に於いて、儒教の対抗馬は老荘思想ではなく墨家思想であった。実は、墨家思想は儒教を批判していたが、墨子自身が儒家の出身であったため、その影響は色濃く見える。目指していた方向に大した差はなく、あくまでもやり方が違ったという理解でまずはいいだろう。墨家たちは特に民衆から圧倒的な支持を得たが、紆余曲折あって壊滅的打撃を受け、始皇帝焚書坑儒によってほぼ根絶やしにされた。そのため、教義の全容を知ることは今のところできない。とは言え、大体のところや構成はわかっている。墨家思想の特徴として第一に挙げられるのは兼愛であろう。兼愛とは、誰でも分け隔て無く愛すべきであるという教えであり、儒教の別愛を否定するものだ。
墨家は、儒家の言うように、他者への接し方に差をつけるべきではないと言う。儒家のそれはあくまでも個人の感情であって、筋が通らないと言うのだ。すなわち墨家は、法家のそれと同じで、規範に対して厳格であり、感情的な妥協を許さないのである。また、墨家の大きな特徴はもう1つある。墨家の経典である墨子は、そのかなりの部分が論理学に関する話に割かれているのだ。すでに散逸した章もあるために全容は不明だが、これは中国哲学の中では珍しい。このように、墨家思想はあまりにも高尚で、人間には到達不可能とも思われる理想を掲げる点と、論理学を重視していたという点から、西洋哲学にかなり近い存在であるという風に言われることも多い。
 最後に老荘思想だ。彼らは自然の法則に従うことが最も合理的なことであるとの考えの下で無為自然を唱えている。であるからして、よく言われる世捨て人の思想とは実は違う。そして、規範を投棄しているわけでもない。人為的な規範の一切は無駄なものであるから、自然という唯一絶対の規範に従うということを求めている。自然以外の一切を認めはしないのである。であるからして、老荘思想も高い規範性を有していると言えよう。
 さて、ここまでで中国哲学の主な教派に対する私の認識を述べた。大体の所をまとめると、儒教は感情を重視し、規範性が低いのに対して、法家や墨家老荘家は厳格で妥協を許さず、規範性が高いといったところだ。そして西洋哲学は、どうやら墨家や、それと近しい法家に似たところがあるようである。要するに、先に述べた西洋哲学に対するイメージとは異なり、西洋哲学は実は高い規範性を有しているのではないかと言うことだ。いつだったか、授業を受けていた教授が、「西洋哲学の持つ規範性を取り戻す研究をしている。」という言葉を思い出す。その規範性があまり見えなくなっているのは何故かわからない。単に知らないだけという確率も高そうだが、もしかすると儒教の中で朱子学が権威を持つようになったことのように、途中でイメージが上書きされるような何かが起こったのかもしれない。何はともあれ、私が西洋哲学を好まなかった理由はここにあるように思う。そして、高校の終わりから今にかけて、墨家の目線から批判しようと立ち返った儒教に再び心が傾きつつある理由もここにあったのだろうと今にして思う。以上が、大学時代の私の思想史である。