「他人に誠実であるということ」 政治経済学部一年 原康熙

“D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous”
これは、かの有名なポスト印象派の巨匠、ポール=ゴーギャンの有名なある絵画の題名である。日本語では「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」と訳される。彼はタヒチで自殺を決意する中、この絵を描き上げた。絵画の右から左へと描かれている3つの人物群像がこの作品の題名を表しており、順に人生の始まり、成年期、そして死期を表していると言われている。

―“コレクション・データベース:『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』” ボストン美術館
「私はどこから来たのか」
実際に私がそう問われたならば、きっと私は答えに戸惑う。これまでで一番長くの時間を過ごした場所がそうだというならば、それはそうかもしれない。私がここ、東京に引っ越す直前も確かにそこにいた。両親も現在そこに住んでいる。しかし、私はそこで生まれたわけではないし、実際にそこにいた時間も、生まれてから今日までの約20年のうち、そのたったの半分ほどである。
「私は何者か」
では、この問いには答えられるのだろうか。この問いにも明確な答えはでない。とはいっても、それは誰にとっても同じことであろう。むしろ、何の躊躇いもなく理路整然と答えを並べられてしまってはそのほうが怖い。そうであるならば、そのとき人はどうするのか。それは、きっと他人を通じて自分を認識しようとするのである。他人を観察し、他人と比べ、自らが他人よりも優れているところ、劣っているところを探す。特に人は苦しい時ほど自分が他人よりも劣っている点を見つけてしまう。
「なぜ、こんなこともできないのか。」「なぜ、他人にはできて自分にはできないのか。」
自分を責める。無力な自分を嘆く。自己嫌悪に陥る。そして言い訳を考える。これが最悪の形であらわれるのが、排外主義である。イタリアの小説家、ウンベルト=エーコは言った。
愛国主義は卑怯者の最後の隠れ家だと誰かが言いました。道義心のない人ほどたいてい旗印を身にまとい、混血児はきまって自分の血統は純粋だと主張します。貧しい人々に残された最後のよりどころが国民意識なのです。そして国民の一人であるという意識は、憎しみの上に、つまり自分と同じでない人間に対する憎しみの上に成り立ちます。
―ウンベルト=エーコ『小説の森散策』
自分と違うもの、異質なもの、理解できないもの……。つらくて、つらくて、自分ではどうしようもなくなったとき、人は自分の未だ理解できていない何かに理由を求めてしまうのである。嫌なことを全部そちらに押し付けて、自分を正当化しようとするのである。
「人間とはなんと醜い生き物なのか。」「なんというエゴイストだ。」
 そう人は嘆くだろう。しかし、私はあえてそんな人間を肯定したい。何よりもまず、自分を優先したい。他人は二の次、三の次……。それで何がいけないのか。自分をおいて何よりも世のため、人のために行動しようなどという主張こそ、偽善もいいところである。欺瞞で、傲慢な、独りよがりなただの戯言である。
 私たち雄弁会員は社会変革を志すものである。確固たる問題意識を持ち、少しでも自分の理想とする社会に近づけようとする。そのために弁論大会や街頭演練、あるいは研究を通じて自らの考える政策を訴える。
「こんなに苦しんでいる人がいるのだから、何とかしてあげよう。」
そういった趣旨の話を、弁論界に入ってからよく聞くようになった。このような話を聞くとき、私は決まって思うのである。それがどうしたのか、と。どこかに苦しんでいる人がいるのは認めよう。だが、その苦しんでいる人と、それを訴えるあなたは別人だろう、と。どうして自分のことのようにその苦しみを語れるのか、と。他人を哀れみ、手を差し伸べようとする自分に酔っているのではないか、と。
何かを語るとき、残念ながら私はこれらの可能性を完全に否定することはできない。いつもどこかで「もしかしたら……」と、そう考えてしまう。しかし、問題はそこではない。どこかに苦しんでいる人がいる。では、その人が苦しんでいることが、なぜ自分は許せないのか。何がそんなに自分を駆り立てるのか。そこを考えなくては意味がない。
ここで、最初の問いに戻ろう。
「私は何者か」
やはり、先ほどと同様に答えはでない。しかし、その答えは自分自身の内にこそ見出され得るものなのである。他人を通して見た自分は、所詮、鏡に映る虚像でしかない。だからこそ、ありのままの自分を、実像を見つめ、自分が何に情熱を感じるのかというその問いに答えるのである。そうして初めて、他人に誠実に向き合えるのではないだろうか。一見して独りよがりに思えるそんなものこそ、真に自分の言葉となり、そして他人を動かすことができるのではないだろうか。
「私はどこへ行くのか」
最後に、この問いに移ろう。
知ったことではない。これに尽きる。絵画の解釈通りならばそこに待つのは「死」のみなのだろうが、それではあまりにも希望がない。もうすぐ、雄弁会に入会して一年が経とうとしている。そうした中、いろいろなものに触れその度に先は見えなくなっていく気がする。それでも、これまでの活動で得た、他人に対して誠実であろうとするこの態度だけは貫いていきたい。そうすれば、きっとそこに何かを見つけることができるのではないだろうか。