「自炊のすゝめ」 社会科学部二年 宇治舞夏

 私たちが明るく希望を持って生きていくためには、自己肯定感を得ることが必要である。自己肯定感を得るためのプロセスとしては、他者から承認され自己を承認することで、自己肯定感を得る、というものがほとんどだろう。しかし私は、この一つ目のプロセスに疑問を覚える。何より、私はこの一つ目のプロセスをうまく行うことができないからである。きっとそういう人は私以外にも多くいると考える。
 なぜ、他者から承認されても自己を承認できないのだろうか。様々な原因が考えられるが、このコラムでは私の経験に基づいた個人的見解を述べさせて頂きたい。
 一番大きな原因として考えられるのは、他者から承認された自己の一部分に関して、自分自身が承認できないから、というものである。そのため、他者の承認を信用できないのである。「なんでこの人はそんな思ってもいないことを言うのだろう」と不信に思ってしまう。「可愛い」と言われれば「なんでそんな嘘をつくのだろうか」、「良い子だね」と言われれば「それって褒めるところ何もない人に使う常套句だよな……」とこういった具合である。自分でも損な性格だなとは感じている。しかし小さい頃からこういう性格であり、きっと私以外にも多くの人が同じことを考えたことがあると思う。
自己を肯定するためには、他者から承認される必要がある。ただし、その他人が承認した一部分に対して自分自身も承認している必要がある。それが私の見解である。

 そんな卑屈な私が最近自己肯定感を得られるようになった。そのきっかけが自炊である。上京してから一年半全く料理をしてこなかった私が、後期が始まってから自炊生活を始めた。「後期からは家事に対して意識を高く生きてみよう」という軽い気持ちで始め、自分自身でも三日坊主になるだろうと思っていた。しかし、いざ始めてみると節約になり健康にもよいなど、メリットがたくさんあった。そして最大のメリットとしては、自己肯定感を得られるようになったことである。自己肯定感を得られるようになり、毎日精神的にも健康に生活することができている。
 ではなぜ自己肯定感を得られるようになったのか。それは、自分の作った料理が美味しいからである。「そんな単純なことで!?」と思われるかもしれないが、これには他の承認とは重要な違いがある。自分が行った「料理」という行動に対して、「美味しい」と感じることにより、自分自身で自信を持てる。そして自己肯定感につながる。これが他とどう違うのか? 例えば、容姿や性格について他者から何か肯定的な意見を言われても、「本当にそう思っているのだろうか」と疑ってしまう。これに対して自分自身で肯定することは難しい。容姿や性格は、他者と関わる中で重要な要素になるからである。その判断基準は自分だけでなく他者のなかにもある。しかし、料理であれば自分自身の身で肯定することができる。自分が「美味しい」と感じれば「美味しい」のである。もちろん、料理を誰かに食べさせるのであれば話は別だが、自炊をして自分で食べるだけであるのでその判断は変わらない。疑いなく、自分の料理を承認できるのである。さらに加えれば、自分で作った料理を写真に撮りSNSにあげ、他者から肯定されることでさらに自己肯定感を得ることができる。「可愛い!」というコメントを信用することはできないが、「美味しそう!」というコメントは信用することができる。なぜならそれは本当に美味しいからである。私自身がそれを実感しているからである。
 まず自分が料理を食べ「美味しい」と感じる。自分の「料理」という行動に対して承認することができる。そしてそれをSNSにあげることで他者から「美味しそう!」という承認を得る。その承認を得た「料理」という行動に対しては自分も承認をしているため、その承認を素直に受け止めることができる。そして自己肯定感を得られる。

 しょうもないことを言っていると思われるかもしれない。しかし、これはここ数年自己肯定感を得られず思い悩んでいた私が得た一つの解決策なのである。私と同じように思い悩む人はきっといる。その人たちにこの方法を伝えたい。また、必ずしも料理でなければいけないというわけではない。ただ、自分で行い、自分で評価するという、なるべく自己完結できるようなものが良いと思う。この発見が、私と同じように思い悩む誰かを少しでも救う一助になれば嬉しい。
 長々と書いたが、実は自炊を始めてからまだ一週間しか経っていない。しかし、自炊によるメリットを本当に実感しているので、きちんと習慣化していきたいと思う。自己肯定感を得るための努力を続け、いつか他者が食べても本当に承認し喜んでくれるような料理を作れるように、そして末永く私を肯定してくれる他者に出会えるためにも、続けていきたいと思う。