「君子は義に喩(さと)り」 社会科学部一年 鮫島玄樹

 愛国心であるとか民族意識といったものを、現代の日本人はどれほど持っているのだろう。少なくとも私自身は、両方ともかなり強く持っている気だ。日本という国は大好きであるし、日本人、もしくは大和民族であることを強く意識し、また誇りに思っている。しかしそんなことを言っていると、やれ右翼だ何だという言葉が飛んできそうな気がする。現代の日本人の一部は、この手の概念がどうしようもなくお嫌いらしい。確かに、愛国心民族意識が国民を戦争に駆り立てた歴史は存在するのであって、これらの概念を毛嫌いしたくなる理由は、まあわからなくはない。とはいえ、少し考えてみてほしい。愛国心民族意識といったものは戦争のために利用されはした。しかしそれはあくまで結果の話なのであって、愛国心民族意識は別に戦争のために作り出されたものではないのではないか?別にこれらの概念は、軍国主義者の専売特許であったわけではあるまい。国を愛する心も、自らの民族への誇りも、誰しもが持ち合わせているアイデンティティの1つに過ぎなかったのではないだろうか。

一種の民族差別を問題意識として抱えている身としては、どうしても愛国心民族意識といった概念を無視することができない。というのも、「愛国心民族意識が、他民族との対立や、排斥といったことを助長し、融和を妨げるものなんじゃないのか。」というような意見をよく耳にするのだ。確かに、世の中の外国人嫌いの方々は、よく愛国だ何だと言いがちだろう。そして愛国心民族意識が、他民族との対立などに結びつきやすい、また、権益を巡る対立の上で口実にしやすいというのも理解できる。しかし私は、先ほど述べた通り、両方とも強く持っていて、その上で民族差別の話を日頃しているわけだ。それでは私の思考が矛盾を起こしているのというのだろうか。いや、そうは全く思わない。

思うに、愛国心民族意識というものは、他民族との対立などに結びつくものではあるが、それと同時に、他民族との融和にも結びつくものなのではないか。柳宗悦は、「朝鮮の友に贈る書」の中で、朝鮮人を支配する日本人の態度に対してこのように述べている。

「この世にはどれだけ多く、許し得ない矛盾が矛盾のままに行われているであろう。私は仮りに日本人が朝鮮人の位置に立ったならばといつも想う。愛国の念を標榜し、忠臣を以て任じるこの国民は、貴方がたよりも、もっと高く反逆の旗を翻すにちがいない。吾々の道徳はかねがね、かかる行為を称揚すべき立場にいる。吾々は貴方がたが自国を想う義憤の行いを咎める事に、矛盾を覚えないわけにはゆかぬ。」

私もこの矛盾というものを感じている。それが自身らの権益を守るためだったとしても、愛国心民族意識を持っている人が他民族との対立などを容認するということこそ矛盾であると、私は思う。自分が貶される側に立ったとき、果たしてどう思うのかという話である。自らの愛国心民族意識を貶されたときの感情を誰よりも理解できるのは、実際にそれを持っている人に他ならない。むしろ、持っていなければ理解できっこないであろうから、そのような人々に、他民族との融和なんて果たしてできるのかとまで考えさえする。これもまた1つの矛盾なのではないかと思うぐらいだ。

愛国だ何だと言って他民族との対立を受容する人々も、愛国心民族意識は民族間の融和の妨げになると言う人々も、一度これらの矛盾に向き合ってみる必要があるのではないだろうか。そして、誰しもが持つアイデンティティとしての愛国心民族意識を、他民族との融和という方向に向けることができたとすれば、それは素晴らしいことであると思う。これこそが、最近世の中を騒がせている移民受け入れといった問題を解決する糸口にもなると思うし、ますますグローバル化が進む世の中で重要なものになると、私は信じている。