『呼び名』 社会科学部二年 清水健太

私は今年の8月に一人で山陰を旅しました。その際鳥取は米子のとあるビジネスホテルに宿を取りました。ビジネスホテルといっても、年季の入った二階建ての建物で、かなりお年を召した経営者のおっちゃんがテレビを見ながらフロントに腰かけている、どこか温かみのある宿でした。
そのホテルのロビーに、草書体で「至誠一貫」と書かれた額が立てかけてありました。フロントのおっちゃんに尋ねると、それはおっちゃんが書いた字で、「至誠一貫」とはおっちゃんの座右の銘とのことでした。社会には様々な立場の違いがあり、誰かと対立することも多い。あるいは商売でいえば、ともするとお客を、ただ金をくれるだけの存在と見なしてしまう。しかしどんな相手であれ、一人の人間であること変わりはない。今自分が関わっている目の前の人に最大限の誠意をもって接すること。これが、おっちゃんが今までの人生で最も大事にしてきたことで、いい人生を送れた大きな要因だと、諭すように教えてくれました。
人と接するとき、立場の違いではなく、それぞれの人の人格に目を向ける。こうすることの大切さは理解できますし、実際私もおっちゃんの話を聞いて以来、それを実践するべく日々意識しています。ですが、現実にはなかなか難しい。その理由の一つは人が、人や物事について、立場や背景などそれよりも大きなものと関連させて捉えがちだからではないでしょうか。
人間の思考といういのは、ともするとマクロな方向に行きがちです。マクロな方向に行くとは、物事を一般化したり抽象化したりしがちということです。反対にミクロ方向に行くとは、なるべく個別的に、具体的に物事を考えるということです。そして私が師事する先生によれば、マクロ方向の思考は対立や分裂に、ミクロ方向の思考は融和や連帯の方向に行きやすいのだそうです。
例えば、今年8月に香港の活動家が尖閣諸島に上陸し、日本の警察に逮捕される事件がありました。マクロ方向への思考では、「活動家の上陸意図は、彼らが言っている通り尖閣諸島の領有権を主張することだ。この事件は、中国の尖閣諸島領有に対する主張が高まっている象徴である。脅威は高まっており、対策を早急に講ぜねばならない」と、このように考えてしまいます。ある出来事を、その背景にあるより大きな出来事や流れに結びつけてしまうのです。ここでは、10名あまりの活動家が起こした事件が中国による尖閣諸島の領有権主張に結びつけられています。その結果、中国という大きなものへの反感や恐怖が生まれています。これは確かに対立や分裂に向かっています。
これに対しミクロ方向への思考では、活動家たちの個人的な事情や理由に考えが向かっていきます。今回の事件で言えば、一説によると、事件を起こした活動家は、彼らの所属する団体の活動が近年下火になっており、その停滞状況を打破するために今回の事件を起こしたそうです。ここで重要なのはこの説の真偽ではありません。このように考えた場合には、それほど大きな対立感情は生まれないということです。というのも、困難を打開するために過激な示威行為に訴えるというのはとても具体的かつ人間的で、それゆえある程度理解し納得することができるからです。
話を人間関係に戻せば、人は人と接するとき、相手の立場や肩書に注意を向けがちです。しかしそれでは、人間関係は対立や分裂に向かう可能性が高い。立場や肩書はその人の一側面に過ぎません。それらよって人を捉えるなど不可能だからです。逆に相手の個性に迫れば迫る程、関係は融和や連帯に向かいます。相手に迫るとは、他の誰でもないその人について理解を深めるということです。では、相手の個性に迫るにはどうすればいいのか。そのヒントは呼び名にあると思います。相手を立場や肩書ではなく、できるだけ固有名で呼ぶこと。「海山商事の磯野さん」や「葛飾区亀有公園前派出所の両津巡査長」はよそよそしく、「波ちゃん」や「両さん」は親しみを感じます。呼び名は人同士の距離感を反映するのみならず、それを変えもします。人間関係が呼び名を変えるのみならず、呼び名が人間関係を変えもするのです。
呼び名の重要性。その大きさを改めて認識し、その認識を今後実際の行動に生かしていくことを小さく誓って、この拙いコラムの結びとします。