『夏場を前に』 基幹理工学部2年 宮川純一

昨年夏の、とある猛暑日。大学から高田馬場駅まで歩くことがあった。早稲田から高田馬場までは、約1キロ半。炎天下においては地獄のようであった。吹き出る汗をぬぐいながら地獄の道のりを歩いていると、ふと、ひんやりとした冷気が体を包む。どこからともなくやってきた極楽の風になすすべなく、引き寄せられて、私は風の吹く方へ近づいて行った。出所はコーヒーショップであった。中では冷たい飲み物を飲みながらヒンヤリ涼んでいる人たちが見える。暑さにうだっていた私はもはや当然のように店内に引き込まれそうになった。が、ふと我に返った。
この店に入っていいのか。
その日は、電力使用率が90パーセントを超えて予測不能の大停電が起きるかもしれないといわれた、最初の日。時刻はもっとも危険視されていた丁度、夕方4時ごろ。
そんなことなどお構いなしに、その店は入り口のドアを開け放して冷気を放出しているのである。もちろん空調は人々の健康のため不必要ではない。売り場があったり客商売であったりすれば、売り場そのものにいてもらうために空調も必要なものなのだろう。しかし、店舗の電力消費割合でも空調は高い割合を占める上に、そうしてやっとできた冷気を「宣伝目的で」しかも「屋外に放出」し続けることには強い違和感を覚える。冷蔵庫の開けっ放しを想像すればどれだけ電力を使うかイメージできるだろう。そして、このような集客戦略をとる店を利用することは、その方法を追認することに等しい。
私はすんでのところで入店を踏みとどまり、入り口のドアを閉めて営業していた別の店に入った。
大停電の可能性が初めて高まった日であるにも拘らず、驚くべきことに早稲田通りはそういった宣伝手法を用いた店で溢れていた。


節電に関しては、確かに需給の逼迫などは電力会社の裁量によるのではないかという意見もある。だが、その時ばかりは社会全体で節電が実行されていた。企業は時間帯をずらして操業し、電車は弱冷房で時に蒸し返して汗ばみ、大学のサークルは空調を禁止され汗だくでの活動である。
そうやってみんなで行っている節電状況の中で、なんの恥ずかしさもなく冷気で客をつる企業行動が私の目にはひどく異常に映った。
通行人もさして気にしている様子はない。
利益を追求した企業活動を社会はこんなにも簡単に違和感なく許容してしまうのか。日本人は空気に縛られる国民性というが、節電の空気感はどこへ行ったのだ。実は、企業行動を基本的に監視しないという消費者行動に見る、社会のエコノミックアニマル性の方が日本人を語る上では上位の概念であるのかと感じた。


かくいう私もこの異常な企業行動に、たまたま気が付いた。気が付いていなければ何の気なしに涼しい店内で冷たいコーヒーを飲んで一服していたに違いない。商品の供給側と違って消費者は基本的に深く考えずに消費行動を行っている。しかし、自分の信条に反する企業行動に気づいた際には少なくとも不買する勇気が必要である。
電気料金の値上がりを前に、電気の供給側の問題ばかりが話題に上がる昨今。もちろん電力会社の体制などを考えていくことは大切だが、我々も消費態度を考え直していくべきなのではないか。


先ほどの早稲田通りの他にも都内の商店街にはいたるところでその方法を使った宣伝にあふれている。たとえば雑貨屋、コンビニ、チェーン古本屋、ドラッグストア、携帯電話ショップ。手動ドアのコンビニはものをおいて開け放しており、チェーンの古本屋は自動ドアのスイッチを切って開け放している。ドラッグストアなどは店内と露店が連続しておりドアがそもそも閉められない店がほとんどである。携帯電話ショップは冷房の効かせ方が強すぎて炎天下でも店の前を通ると寒いくらいであった。
 このような状況に際して、そういう厚顔無恥な宣伝方法が企業イメージに悪く働くような消費者行動が望まれていると私は考えている。