『ラスコーリニコフは何故凶行に至ったか』政治経済学部1年 伊藤宏晃

「もしおのれの思想のために、死骸や血潮を踏み越えねばならぬような場合には、彼らは自己の内部において、良心の判断によって、血潮を踏み越える許可を自ら与えることができると思います――」(『罪と罰』/角川文庫/米川正夫訳)
 『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフはナポレオン主義思想の持ち主だった。ナポレオン主義とは、「ある高邁な目的のためには手段は問われず、行為は歴史により正当化される」という考えだ。そしてまた、人間はルールに従うだけの凡人と、それを書きかえる天才の二種類がいるという選民思想の持ち主でもあった。
物語の序盤でラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺害する。殺害の動機は金品を奪うことであり、ごく一般的な強盗の動機に見える。しかし、どうやら動機は単にそれだけではないと分かるのが、ラスコーリニコフと彼を疑う判事ポルフィーリィが会話する場面であり、上記の台詞である。これによると、社会のためになるような天才(ナポレオンやニュートンなど)には「罪」を乗り越える権利があるとしている。そしてその理論を持って彼は自らの殺人を肯定する。
だが、ここで疑問が生まれる。「彼にその権利があったのか?」という疑問だ。実際、ラスコーリニコフは老婆殺しで得た金を社会にどう活かすかについて深く考えておらず、あまつさえ証拠隠滅のために金を捨ててしまう有様だった。彼の理論によれば、彼に殺害の権利などないことは明らかだ。
では、なぜラスコーリニコフは殺害に踏み切ったのか。それは自らが天才であることを示すためだ。人間を天才と凡人に二分してしまった結果、彼は自分が天才の側に属す人間でなければならないという強迫観念に囚われてしまった。そして、「天才は社会のルールを乗り越えられる」という考えが転倒し、社会のルールを乗り越える、つまり罪を犯すことによって自らが天才であるという確信を得ようとしたのだ。
ここで二―チェの思想が思い起こされる。ニーチェは一般大衆である「畜群」に対し、無意味な人生の中で自らの意思、善悪観に基づいて行動する人を「超人」とした。このことを踏まえると、ラスコーリニコフは超人思想の持ち主だったのではないかと思われる。
ラスコーリニコフの殺人は、徹頭徹尾彼自身のために行われた。まかり間違っても社会のためではない。彼は自身が陥っているニヒリズムを超克し、自身を価値あるものとするために(超人となるために)、罪を犯したのだ。「罪」はロシア語で「乗り越える」という意味を持つが、彼は「乗り越える」ことで自らが何者かであることの確信を得ようとしたのだ。
ラスコーリニコフがそこまで過剰な自意識を持っていたのは、社会から隔絶していたからだ。家族から離れ、大学も仕事を辞め、人付き合いもしない。その結果、自意識ばかりが肥大し、自らが価値あるものであることを示すことに囚われたのだ。それに気付いたのか、判事ポルフィーリィはラスコーリニコフに、君には「新鮮な空気」が必要だ、と説く。ラスコーリニコフが妄執から逃れるためには、「新鮮な空気」を取り入れること、つまり外の世界とつながることが必要だったのだ。
ここまでが「罪」の部分である。「罰」の部分と、ラスコーリニコフがどうなるのかについては自分の目で見てほしい。人によって様々な解釈ができるだろうが、それこそが古典の懐の広さであり、魅力なのだ。