『「学び」とはなんだろう?』政治経済学部2年 徳本進之介


最近、司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦」を読みました。そこでずっと気になっていた場面があります。劉邦の股肱の臣である張良が、ひょんなことから太公望の兵法を教授してもらう場面です。張良が秦の始皇帝を暗殺しようとし失敗し各地を亡命しているときの話ですが、ある日、黄石公という老人に路上で出会います。突然馬上の黄石公が履いていたくつを落とし、「くつを取れ」と命じました。しょうがなく張良はくつを拾って履かせます。また別の日に黄石公に会います。その時また黄石公はくつを落とし「くつをはかせろ」というわけです。張良はしぶしぶくつを履かせます。そうするとくつをひろって履かせた瞬間に心解けて兵法奥義を会得したということになっています。もちろん様々な言い伝え方があり、他のお話を聞いたことがあるという方もいるかもしれませんが…
この話を知った時から、「一体どうして張良は一瞬で兵法を会得できたのだろうか?」という疑問がずっとありました。もし、この逸話を真とするなら、この場合の兵法極意は、一瞬で得られるもので、修行を経た実体的な技術や考えではないことが分かります。黄石公が教えたのは「技術といったコンテンツ」ではなく「マナー」だったのではないかなと思います。この逸話における兵法極意とは、「学ぶ構えそのものを学ぶ」=「マナー」なのでは?どう学ぶかが重要で、何を学ぶのかといったことは2次的なものだと考えられていたとも言えるでしょう。
また、黄石公がくつを落としたという点も重要だと思います。2回もくつを落とされたら「一体どうして?」と思うことでしょう。「このどうして?」と思わせること(または思わせるように演出すること)が重要なのではないかと思います。学ぶインセンティブを考えた場合、「これをやればいいんだな」と有用性が理解できるようなことをさせたら、「未知のことを学ぼう!」とは思いにくいでしょう。弟子が自分の判断基準で判断できてしまうのですから。雑巾がけや便所掃除の際に「師は、なんでこんなことをやらせるんだろう」と疑う内に、弟子という枠組みにいる人間は、「師は何か深い意味があるとお考えだからこのようなことを命じるのだろう。この動作に意味があることを見抜けないなんて自分はなんて未熟なんだ。」と思うようになる場合が想定されます。この場合、何も意味がない行為(くつを落としたという偶々の出来事)ですら、これは深遠な教えに違いないと思えば、学びがその場にて起こるのです。
こう考えてみますと僕自身、この学びの被害者であるような気がします。高校の時の剣道部にいたのですが、顧問の先生が、稽古前にいつも黙想をするのですが、黙想をやめる際に手を叩くわけです。声で「やめ」と言えばいいのにと私は当初思っていたのですが、次第に時がたつにつれ、「わざわざ黙想させてから手を叩くには意味があるに違いない」と考えるようになってしまいました。最終的には、「手には右手と左手があり、その双方の手が同時に意識せずぶつかって一つの音が出る。片手だけではあのような音はでない。つまりまったく別なもの同士を叩き合わせることによってこそひとつのハーモニーが生まれるのだろう。」とか「わざわざなんで黙想させるのだろう?そうか!目を使うなということか。つまり目前のことじゃなく深遠なるものを心でみよということだな。手を叩く時の、右手と左手との関係は、国と国に関してもあてはまるのではないか。平和というハーモニーは、右手と左手がそろってこそ現れるものであって、右手だけが叩きたい、左手は右手に触れたくもないという状態では生まれようがないのだ」などなど勝手に「学び」を起動させていました。今から考えたら、全く顧問の先生もびっくりするでしょう。
滑稽かもしれませんが、こんな考えが人間に常に学ぶ機会を与えてくれているのかもしれません。荒井由美の「やさしさに包まれたなら」という曲のフレーズには、「目に移るものすべてはメッセージ」というのがあります。目に移るもの全てをメッセージとして捉え、学ぶことができるのに、私たちは有用性に捕らわれて「学び」のスイッチをオフにしているのかもしれませんね。