「ポケモンの話」 社会科学部2年 大嶽潤平


私がこれから話をするのはポケモンの話だ。ポケモンとは主にゲームボーイシリーズなどでプレイされるゲーム、ポケットモンスターの略で、主人公はポケモンを鍛えポケモントレーナーとしての頂点を目指し、一方でまた全てのポケモンを獲得しポケモン図鑑を完成させるという二つの大きな目的がある。初代ポケモンは、私が小学校1年生くらいに流行ったものであるから、そのはじまりはもう10年程前のこととなる。最近発売されているポケットモンスターの最新版についてはプレイしたことがないので、ここで私の語るポケモンについての考察は「ポケットモンスター、赤・緑」と、「ポケットモンスター金・銀」と、「ポケットモンスター、ルビー・サファイア」の計三部作をプレイしての経験と記憶に依るものである。いかんせん古い記憶で曖昧であるし、私はテレビゲームに関してはすぐに飽きてしまう質なので、ポケモンに特別造詣が深いわけではない。このコラムは私がポケモンをプレイしていた頃の記憶を辿り考えたことを自由に書いた。よってその考えが社会的に賛同を受けているわけで何でもないので、勝手なことを書くなとお思いの方もいるかもしれない。が、納得できないことに関してはどしどしご質問、ご反論をお待ちしている。

私と同年代かそれより若い人達はよくご存じであると思うが、ポケモンはゲームの初めに「炎タイプ、水タイプ、草タイプ」のそれぞれ三つの特徴をもつパートナーポケモンを選びゲームが進んでいく。この際、一つのポケモンを選んでしまえばその他の2つのポケモンは、特殊な操作をしなければ決して獲得することはできないので、どのポケモンをパートナーにするかで非常に頭を悩ませることとなる。この三つのタイプに関してはそれぞれジャンケンの「グー、チョキ、パー」の関係と同じであり、「炎タイプは水タイプに比較劣位、水タイプは草タイプに比較劣位、草タイプは炎タイプに比較劣位」という関係性がある。そして、主人公が炎タイプを選べば、そのライバル(物語の中で終始遭遇し戦い続けるボスのこと)が炎タイプに対して比較優位な水タイプを選ぶ、主人公が水タイプを選べばライバルは草タイプを選ぶというように、とにかくライバルは主人公にとって苦手なポケモンを後だしで選び、後の物語の要所要所で遭遇し戦うこととなる。

私はポケモンの数ある魅力の要素の中から、三つのポケモンの中から一つしか選ぶことができないということと、ライバルが自分より比較優位な選択をするという点に魅力を感じる。プレーヤーは、パートナーポケモンには非常に愛着を感じるものだ。炎ポケモンも欲しい、水ポケモンも欲しい、できることなら三つのポケモン全てを手に入れたいのである。しかし、それら全てを手にすることはできないのである。高校の部活で考えたら基本的に野球部という部活にどっぷり浸かりながら、サッカー部でも朝から晩まで毎日プレーすることができないのだ。このように人生には常に一日一時間という時間的制約、自分自身という物理的限界がある。だからこそ自分のその時その時の選択は唯一無二代替不能なものであるのだ。だからこそ、その選択は正しいのかとの自問自答を繰り返す。ポケモンにおいて最初の三体から一つのポケモンを選ぶことは、私にとっては早稲田大学に入学したことや雄弁会に所属していることの投射なのである。また、自分が選択したポケモンに対して比較優位なポケモンを手に入れるライバル。そのポケモンが、自分が選ばずにこれから獲得することができなくなってしまったポケモンであるから、ライバルに対するコンプレックスはひとしおである。しかも、主人公はそのライバルを倒さなければポケモントレーナーの頂点に立つことはできないのだ。当初、自分よりも有利な選択をしたはずのライバルを倒すというその物語には、「弱者は弱者であり続けるな」というメッセージが読み取れる。自分よりもいい選択をしたと思われる人間はたくさんいる。しかし他の人間にコンプレックスを抱きながらも自分の選んできた道に責任をもち人生を力強く歩んでいく。ポケモンの物語にはそんな憧れの姿がある。

秋葉原のオタクや電車の中でゲームをやる少年。そんな人々はゲームをやったことのない大人からは先が思いやられる存在なのかもしれない。しかしそのオタクが、その少年が、ゲームの中から自分の人生の糧となるようなメッセージを読み取ることができたなら、彼らは力強く人生を歩んでいくだろう。