「國語表記に思ふ」 法学部1年 石本仰


高校の時分から正漢字、歴史的假名遣(正字正假名)を使つてゐる。試驗の答案やレポートにも正字正假名を用ゐたために、減點せられ、その度に教員に抗議に行つたことが懷かしく思ひ出されるが、當時の私は周圍から何と云はれようと、これを貫いたものである。
初めは單なる知的好奇心から正字正假名を學んだのであるが、習得してみて、實に美しいと感じた。それに引換へ、新字新假名には美しさがない。理窟ではなく、純粹に美的感覺であつた。
新字新假名制定の内實を知つたのは、しばらく後のことであつた。戰後間もない頃、一部の國語改變論者の手によつて、「當用漢字」「現代かなづかい」が定められ、千年以上の歴史を持つ、從來の正字正假名による國語の表記方法は、改變せられた。その後小規模な改正はあつたものゝ、ほゞこれに準ずる表記が、現在に至るまで主流を占めてゐる。
詳しい過程についてこゝでは觸れないが、かうした事情を知らなかつた、正字正假名を習得して間もない頃の私が、これに美を見出したのも、當然であつたと云へよう。正字正假名は支那、日本の千年以上もの叡智の結晶であるのに對し、新字新假名は、僅か60餘年前に、敗戰の混亂に紛れて制定された、當時の一部の人間の賢しら心の所産であるのだから。
賢しら心といふのは、國語改變論者が、日本語を「效率的」にしようだとか、あるいは漢字表記は近代化を阻礙し、封建制を助長するものだから、漢字を廢止しよう、などといつた、後者に至つては現在となつては理解できないやうな、輕薄な理由で以て、改變を主張したことである。
これによつて産み出された國語表記が、如何に不合理で無秩序なものであるかは、すでに諸賢の論じてゐる所である。又、先述の小規模な改正といふのが儘く、表記を舊に復さうとする、少くとも敗戰直後の急進的な改變を緩和する方針で爲されたことからも、國語改變の失敗は明かであらう。
しかし、現行の國語表記それ自體の是非善惡は一旦措くとして、こゝで私が問題にしたいのは、敍上の改變論者の議論がいづれも、國語の歴史、傳統を重んじるといふ視點を缺いてゐる、それどころか、積極的に破壞しようとさへしてゐる、といふ點である。
ある事物が何らかの歴史を持つて存在するといふことは、取も直さず、それがその事物を作り上げた、幾多の先達の智慧や經驗の所産であるといふ事を意味する。それを顧みず、その時代々々を生きる人間が、手前勝手に歴史、傳統を破壞してしまふのは、淺薄以外の何物でもない。
所で、現在の日本を見ても、盛に「改革」が叫ばれ、何でも變へるのが良い、といつた風潮が強い。平成に入つて後も、許多の改革が爲されたが、その殆どが、必ずしも成功したとは云ひ難く、又そこには、歴史、傳統を顧慮する姿勢は見られない。
傳統でありさへすれば何でも正しいと云ひたいのではない。舊來の陋習に縛られる「傳統主義」に、與するものではない。時代が移ろへば、變へるべきことは當然出て來るものである。しかし、餘り急進的に社會制度を變へてしまふのは、やはり不自然である。譬へて云へば、地平も巨視的に見れば大きく曲つてゐるが、急激に曲られたのでは、地上での我々の生活は成立たなくなる。
現代の日本はもつと、自國の歴史、傳統を尊重すべきである。歴史、傳統に學ぶといふことは、先人の智慧に學ぶ、謙虚な態度に他ならないのである。