天空の城ラピュタが教えてくれるもの〜anastorophe、崩壊へ 社会科学部一年 日下瑞貴

7月の金曜ロードショーでは「ジブリ祭」と題して4週連続でスタジオジブリの作品が上映されている。「紅の豚」、「ハウルの動く城」、「となりのトトロ」など名作の数々が家庭を明るくしてくれるだろう。私もご多分にもれずジブリ映画の大ファンなのである。時間があれば毎週のようにジブリ映画をみている。ジブリの話になるとついつい熱くなってしまい時間を忘れて話し出してしまう。そんな名作の中から今日は「天空の城ラピュタ」の話をしてみようと思います。無論、映画に限らず文学は受け手の主観が必ず介在するものでありますから、あくまで私の主観というフィルターを通しての話になってしまうことをご了承ください。
ラピュタはおそらくほとんどの人が一度は観たことがあるかと思います。忘れてしまった方もいらっしゃるかと思いますのでまず冒頭を軽く説明します。
主人公は飛行石のペンダントを身につけた幼い少女シータ。シータとシータの飛行石とを狙う政府の役人ムスカの飛行船にシータは乗っています。そこにシータの飛行石を狙う海賊ドーラ一家が襲いかかります。シータは逃げようとするが誤って飛行船から真っ逆さまに落ちてしまう。落ちていくシータは気を失ってしまいます。すると胸のペンダントが輝き、シータは宙に浮くのです。空から降りてくるシータを発見したのは炭鉱で働く少年バズー。バズーは炭鉱まで全速力で走り、親方に頼まれた肉団子のポットを置き、シータを受け止めます。こうして二人は出会い、二人と空中都市ラピュタを巡る物語が始まります。
ラピュタを通して宮崎駿は何を私たちに語りかけているのでしょうか。一人一人のセリフ、一つ一つの場面を注視してみると色んなメッセージが浮かび上がって来ます。私の特に気になったシーンを時系列的に振り返ってみます。
洞窟で出会ったポム爺さんはシータの飛行石を見てこう言います。「その石(飛行石)には強い力がある、力のある石は人を幸せにもすれば不幸にもする。ましてその石は人の作りだしたもの、気になってな・・・」飛行石はシータを助けてくれました。それに光り輝くきれいな石です。そんな石がどうして怖いのか。バズーにポム爺さんの言葉の意味がわかりません。
次はディテスの要塞のシーンに移ります。既に機能していないはずのロッボトが飛行石の光に呼応し、また動き出すシーンがあります。このロッボトのレーザー、軍隊の武器は辺り一面を火の海にしてしまいます。この宮崎映画における「火」の存在は原則的に強いマイナスのイメージを帯びています。例えばナウシカの巨人兵、ハウルの変化時、もののけ姫のタタラ場などがそうです。ナウシカの村長たちはトルメキアの女王クシャナに「俺たち火は嫌いだ!」と言い放ち、ハウルカルシファーは兵器の炎に対して「あいつらの火は嫌いだ。何でもかんでも焼き尽くす!」と言います(カルシファー自身も火なのにも係らず)。同様にラピュタでも人の手によって作り出されたロボット・武器の火が同様の悲劇を引き起こしてしまうのです。
シータは次第に飛行石に対し恐怖を抱き出します。ラピュタを目指す飛行艇の中でのシータとバズーのやりとりを見てみましょう。シータ「バズー、、、、私怖い。。。。(中略)こんな石捨ててしまえばいいんだわ。」、バズー「石を捨ててもラピュタは無くらないよ」「航空技術がどんどん発達しいずれ誰かがラピュタを見つけしまう。」石は自然にあるもの、ラピュタは人工的に創り出され、既に存在してしまっているものです。単に石を捨ててしまえば解決する問題ではないとバズーは諭します。
二人は龍の巣を突破しなんとかラピュタに到着しました。しかしそこにはもうロボット一体しかいないのです。バズーは言います。「科学もずっと進んでいたのにどうして・・・」超近代科学技術を有したラピュタがなぜ滅んでしまったのか。。。。
ラピュタにただ一人残っていたロボットの肩にはコケが生え、小鳥がとまっています。さらに大樹の縁には壊れたロボットが無数に転がっています。その壊れたロボットは自然と同化しています。ロボット=近代文明と自然とが調和しています。文明と自然とは必ずしも二項対立的関係ではないというメッセージが読み取れます。余談ですが自然と一つになった彼らをみていると、写真家の田端安雄が言っていたことが思い出されます。彼はトーテムポールを見て「これが本来の生の在り方なのだ。死んだ者はそこで全てが終わるのではない。自然と共に生きるのだ。」といいます。ここでは人間が死にその後自然と共に生きています。
さて物語りもいよいよクライマックスへ。ラピュタが遂に滅びるシーンを見てみましょう。「ラピュタがなぜ滅んだか私にはわかる」とシータは言いゴンドアの谷の歌の一節を口にします。

土に根を下ろし、風と共に生きよう
種と共に冬を越え、鳥と共に春を謳おう

シータは続けます。「どんなに恐ろしい武器をもっても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられない。」これに対しムスカは「ラピュタは滅びない。ラピュタは人類の夢だからだ」とシータに叫びます。
そして遂にシータはバズーとともにあの言葉を口にします。「バルス!」滅びの言葉。これは「バルシュ」トルコ語の「平和」の意味に由来すると言われています。ラピュタの崩壊=平和ととれてしまいます。ラピュタは崩れていきます。レーザーもロボットも財宝も。。。。
最後ラピュタはどうなったでしょうか。ラピュタは遥か空の彼方まで昇っていきます。おそらく大気圏あたりで燃え尽きてしまったのではないでしょうか。これはふざけて言っているのではありません。古代ギリシアでは「崩壊」を表す言葉は「catastrophe」と「anastrophe」の二つがありました。「catastrophe」は下へ向かっていくという意味での崩壊、いまでも大災害などの意で使われています。そして「anastrophe」は上へ向かっていくという意での崩壊を指します。おそらくラピュタはどんどん空へと上り、大地を離れ、誰にも発見されずに「anastrophe」、崩壊してしまったのでしょう。

以上がラピュタの概要でした。ここまででおそらく大体のメッセージは掴めたのではないかと思います。再度まとめてみます。どんなに文明が発達しようとも、どんなに高度な技術が産まれようとも、決して我々が地上に生きていて、作物を作り生きていくのだということを忘れてはいけない。これがゴンドアの谷の歌の意味です。しかしロッボト達に見られるように、決して文明の発達と自然とは相反するものではないのです。ラピュタにただ一人残っていたロボットは小鳥と自然と友達でした。ただし、我々が文明の発達ばかりに気を取られ、土に根を下ろし、風と共に生きているんだということ忘れてはいけない。それを忘れてしまった時、文明は崩壊していくのです。いや、文明の崩壊そのものが「平和」になってしまうのです。父さんがくれた熱い思いも母さんがくれたあの眼差しも地球が回り続けるから受け取れるのです。「我々が地球に生きていることを決して忘れてはいけない。」宮崎駿は急速に発展してく近代文明に対し、このような警鐘を鳴らしていたのではないでしょうか。
思い返せばこの映画が上映されたのは1986年、バブルの時期です。映画や文学は社会と離れて存在するものありません。様々な作品をみることで多様な視点を身につけられるはずです。是非色んな作品に触れてみましょう。
今回はコラムということで、社会問題そのものではなく、価値観を重視した原稿を書かせて頂きました。ご質問やご意見、ご感想がございましたら遠慮なく投稿してください。お待ちしております。御拝読どうもありがとうございました。