「春の夢」

社会科学部一年 杉山健太

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
―『平家物語』―

春がやってくる。未だ大気は冷気を帯びているが、それは風となりて若草の芳しい香りを人々の心へ届けてくれる。春がくるのだ。太陽の慈愛に満ちた光に照らされた大地が色とりどりの草花を芽吹かせる春が。悲哀と歓喜を心の奥に湧きたたせるあの春が。


本コラムでは、仏教ならびに鈴木大拙の言葉を援用して、人間の存在意義に関する独善的私論を展開する。なぜならば、日本において自らを殺める人は一年で三万人を超えているからである。しかし、存在意義の問題を扱うのにもかかわらず、経済苦で自らを殺める人を含めることに異論もあるかもしれない。だが、それは、金銭問題もまたその人の存在意義およびそれを支える関係性を破壊すると考えるからである。

この重たい現実を変革して、日本で暮らす人々が生きる意味を自覚するために、みなが充実した人生を歩むために、そして、数あまたの悲しい命の慟哭が響くことがないように、そのための糸口を求めて、私は本コラムを記す。

では本論に入るまえに、鈴木大拙という人物ならびに彼の思想を紹介せねばなるまい。

明治維新直後の1870年にこの世に生を享けた大拙は、1891年に鎌倉円覚寺に参禅し、その当時33才という異例の若さで館長の位にあった釈宗演のもとで禅を学ぶことになる。そして、93年に彼とともに世界宗教者会議に出席し、そこで仏教に関する発言を行う。その会議は、それまでキリスト教ユダヤ教イスラム教など西洋世界の宗教関係者のみが招かれて開かれていたものであるが、二人が始めて仏教代表として参加したことで、欧米の色眼鏡で考えられていた仏教像というものの変革を促した。そののちの98年に、大拙は宗演からの後押しもあって渡米し、アメリカの出版社で英訳の仕事をしながら研究活動に打ち込むこととなる。

大拙が説いた禅とはインドや中国の禅とは全く異なるものであった。その大きな相違点は、形式の不完全さこそが精神をあらわにするという考えから、形式を無視し精神に焦点を当てたことである。つまり、主客を滅却したところに生じる虚心・孤独の域に達するために必要な所作は、俳句でも弓でもなんでもよいとしたのである。

敗戦直前の1944年、大拙は、霊性を鍵として日本の戦前と戦後の断絶を結び合わせ、戦後日本の宗教観の展望を示すことを目的として『日本的霊性』を発表する。明治政府によって歪められたものの、日本列島に古来より存在していた神道が戦争イデオロギーとして利用され、それが敗戦により否定されることで日本人の宗教観の崩壊をもたらすという危惧感から発した文筆活動であった。

その書籍で説かれていたことは、第一に、戦後日本の宗教は神道に依るのではなく、精神と物質という二元論を超越した霊性こそを主軸にするべきだということであった。霊性とは、理念・道徳などの世俗的倫理を超えた宗教的体験である。その体験における心は積極的に主体・本性に接している状態にある。

第二に、霊性と文化の関係を説き、文化が発展してこそ覚醒するという。私的に解釈すれば、未開社会においては、個人と絶対性(神)は人間生活の中において混在し、神は常にわが身のそばにいると考えられるが、文化とくに科学が発展すると絶対性を信じる心に対して疑惑が生じる。すなわち、個人と神がいったん切り離される。そして、切り離され心に空白が生じるため、神とともにある意識があった以前よりも痛切なまでに、心は失ったものを取り戻そうと神性を志向する。つまり、絶対性に対する信心が以前より強くなる。チェコのハヴェルも同様に、この地上の生活が大量自殺で終わらぬためには、世界外の何らかの権威、自然または宇宙の摂理、倫理秩序とその超人的本源への畏敬への倫理的・精神的方向付けが必要であるという言葉を発している。失ったがゆえに神性の感覚が自己を成り立たしめる一部であると明確に意識できるようになる、この状態こそが大拙の説いた覚醒ではないだろうか。そして、この考えを独善的に敷衍すれば、近代とは後戻りできない悲劇ではないということになる。

本論
本論では、『十牛○○』という仏教の真理を描いた絵図を解説・私的解釈しながら、人間の存在意義の問題に迫ってみようとおもう。そのまえに、社会に発する言説であるにもかかわらず、○○となっていることを許していただきたい。東洋哲学の授業で講師にいただいた資料なのだがなくしてしまったのだ。

その十牛の絵は文字通り十枚の絵によって構成されているのであるが、一枚目から五枚目までは、一人の男が牛を探している過程が描かれている。ここで、その男は「私」、牛は「まことの私」すなわち存在意義ないしアイデンティティである。まず、男は牛の足跡を辿って牛を見つけ、一度は捕まえることに成功する。しかし、いつのまにかその牛は消えてしまう。自分の存在する意味を掴んだとおもったら、いつのまにかそれを失ってしまうのである。

つづく、六枚目には中国の昔話に出てくるような山間に、たった一人でたたずんでいる寂しそうな男の後ろ姿が描かれ、七枚目には六枚目の自然背景だけが描かれ、ついに男もいなくなってしまう。
そして、真っ黒な空間が描かれた八枚目の絵の下に「紅炉の上の一点の雪」という言葉が記されている。この言葉の私的解釈が本コラムの主目的である。

十牛の絵の八枚目にある漆黒の闇。それは無の境地である。超能力者でないかぎり、ふつう人間はこの世界に生まれた本当の意味など知らない。生きる意味さえもわからない。だからこそ、生きる意味を自分で作り出さなければならないため、それを探してもがき苦しむのであるが。そして、行き着く先が本当の一人。全てに意味など感じなくなる。自分がこの世界で何をしようと、どう生きようと全くそれに宿命的な意味などない。完全なる弧絶性。自らを殺める決意をしたときの心境とは、私などがおしはかれるはずもないが、このようなまことの寂しさに支配されているのではないだろうか。

この完全に孤絶した状態が「紅炉の上の一点の雪」。一切を無に帰す灼熱の上に存在しているにもかかわらず、なぜか決して溶けることのない一粒の雪。すなわち、全く本来的意味が存在しない無の世界において、自分の心が他者には見えず、体も一人で立っている完全に弧絶した自分が、なぜか、消えることなく存在している。

そして、九枚目の一間を置いて、最後の十枚目には調和した自然風景が描かれている。
植物や動物、大地や大空、地球にいたるまで自然界・宇宙の万物も、人間と同様に存在する本来的意味など持たぬし、孤絶して存在している。しかし、なぜか存在している。それは関係性(因果・縁起)があるからである。この地球上に一切の関わりを持たない絶対物または絶対的生物など存在しない。一つでは生きれない。この世界は相対性によって成り立ってる。人間も同じ。孤絶しているのに生きているのはなぜか。関係性があるからである。食事をしたり、愛情や友情を育んでいるからである。僕たちの周りに見えない関係性の糸が、インドラの網の目があって、僕たちを生かしている。一人の自分に、あらゆる透明な関係性の網が結びついている。一即全の状態。つまり、自然風景が真理。あるがままの関係性に身を委ねた日常生活こそが真理。ここにおける一人は、閉じた弧絶ではなく、世界に開かれた孤独であり、霊性に触れている瞬間、すなわち、あるがまま、空。
生きる意味など血眼になって求めるものではないのかもしれない。なぜならば、なかなか気づかないけれども、日々の生活のうちに、日々の関係性のうちにそれは静かに眠っているからである。そして、自分にとって大切な人達や愛する人と関わりあったとき、牛は突然目覚める。人間のまことの幸いとはそこにあるのだとおもう。そして、イエスが「自分を愛するように隣人を愛せよ」と説いた意味もここにあるのだとおもう。本当は誰もが関係性や愛の尊さを知っているのに、いつのまにか見失ってしまう。人間ほど本当に悲しい生き物はいない。

結び
この形而下の世界に唯一、あらゆる関係性を必要とせずに存在し万物を構成しているのは、原子のみ。絶対性を備えているのは原子のみ。もし、形而上に神が存在するならば、それは原子の創造者であり、無限なる銀河系のどこかにいるのかもしれない。