合同コンテンツ「はじめに」

何のために生きるのかなあ。どうして生きてるのかなぁ。何をすれば生きてるって言うの?

昔から映画が好きだった。現実の世界とは違う世界を体験できること。自分が登場人物の立場だった時にどういう行動をとりそうで、どういう行動をとるべきなのか考えること。そんな風に、自分の持つ生活の外の生き方を感じたり、考えられたりすることが魅力的だったのだろう。

ちょうど中学三年の時だったか。同じく映画好きの友人の勧めで、黒澤明監督の「生きる」という映画を見た。

市役所に勤める主人公は胃ガンと宣告され、絶望の果てに自分の人生を無意味に感じ愕然とする。しかし、青春時代に聞いた「恋せよ乙女」のメロディーの中で、自分の生の躍動を感じ、生に意味を見出し、行動を起こしていく。

私が思春期の真ん中にいた時にみたこの映画はそれまでの私の生の中からも強い共感を引き出した。冒頭のように思っていた私に。

しかし問いの答えは確固たるものとしては出てこない。

今、私は18歳。4年近くがたった。そして未だに問い続ける。

生とはなんであり、そして、生の存在する社会とは何なのかと。

個々人によってその生は違い、生に求めるものも違う。知らない他人の生の「あるべき姿」について語ることはその人の生にとって失礼にあたるかもしれない。しかし、だからといって生の存する社会について口を閉ざすべきだということにはならない。今語るべきは生の存する社会の理想、そして、それに反する現状の変革についてである。

ホッブズは公的な権力は個々人の「生の保障」をするために正当性が与えられるとした。

社会と「生の保障」とは不可分の関係にあったのである。

では「生の保障」とはどのようなものなのであろうか。近代においては社会秩序の維持に焦点が当てられた。そして社会国家とよばれるものが強く存在していた時代には、個人の(金銭的)生活を保障し、個人の生の増強へと努めた。しかし、それは今変わりつつある。

国家間の境界線が薄くなり、世界がどんどんと狭くなるグローバル化と呼ばれる波の中、日本においても人々の生のありかた、保障のありかたも変容する。

たとえば経済的競争の中に他国が大きなアクターとして入り、自国の企業は他国の安い労働力を持った企業との競争にさらされる。ここにおいて高度成長期まで生の保障に大きな役割を持っていた企業の力は大きく弱まる。

国家とて同じことである。キャピタル・フライトによる産業の流出や租税回避を避けるため、企業の負担となる税は減少の一途をたどる。そこで生の保障に大きな役割を持っていた社会保障はその役割を縮小させていく。

そこで人々の生活は低収入、長時間労働などにさらされる。

再度言う。個人の生のありかたなど決めることはできないしすべきでもないが、社会は、生の保障に対しては真摯にその役割を果たすべきである。

「生きる」の主人公の生において必要なものはなんだったか。おそらくお金でもないし、社会的地位でもないだろう。あなたたちの生において必要なものはなんだろう。あなた自身もすべては知らないだろう。

しかし、社会が保障すべき生の位相もあるのである。

政策集団は「生の保障」体制の構築を目指すものである。そしてこの報道コンテンツにおいて、構成員それぞれが保障すべき「生」を考えながら、それぞれの変革論をなしていくものである。