「フランシス=フクヤマ著『アメリカの終わり』書評―慎慮ある普遍主義のかたち」

政治経済学部四年 折本龍則

自由民主主義の普遍的妥当性を信奉する徒輩が開始した昨今のイラク戦争は、アメリカの誤算と敗北が次第に明らかになりつつある中で愈々混迷の様相を深めている。そうした矢先、これまでネオコンの理論的支柱と目されていたフランシス=フクヤマが、政府への違和感を表明し陣営を離脱した。その決別声明とも言うべき著作が昨年「AMERICA  AT THE CROSSROAD」(邦題「アメリカの終わり」)と題して上梓された。レオ=シュトラウスを起源に頂くネオコン系譜の正嫡を自任するフクヤマは、同著の中で、巷間に氾濫している矮小化されたネオコン認識の誤解を匡し、現在ブッシュ政権を占拠している政策集団は、ネオコン本来の理想から逸脱した変種に過ぎないと断定する。
嘗てニクソンキッシンジャー系列の共和党保守による伝統的リアリズムの外交政策では、敵対する国家の政治体制に関して相対主義的な立場を堅持したため、各国内部の人権保護状況や政治的権力関係に容喙することは無かった。ニクソンがそれまで「悪の帝国」と喧伝されてきたソ連の存在を承認し、デタントを推進した事実はこうした思想的背景に基づく。対してシュトラウス一派の政治思想は、「体制が内側に対して持つ性格が対外行動をも規定する」という「レジーム(体制)重視」の基本理念に貫かれている点で特徴的である。つまり国家を基礎付ける諸制度は、国民の社会的な価値観(エートス)とシンクロしており、また対外的な外交政策に反映されるとするのである。従って、専制体制は自ずから過激な聖戦主義の温床となり、権威主義的な対外政策を生み出すから、平和に向けた最終的解決は「レジーム・チェンジ(体制・転換)」を待つほかないというのが、彼らの主張である。
ネオコンの思想グループは、米ソ冷戦の終結によってアメリカがイデオロギー的な正当性を勝ち取り、また一極支配的な軍事的優越を確保してより後一層影響力を拡大した。特に世界の総軍事費の大半を占めるアメリカのハード・パワーは、かの国の政策当事者をして、自らが世界に率先して、残存する独裁国家を打倒し、自由民主主義の道徳的彼岸を実現していく歴史的使命を課せられているのだという、なんとも独善的な自己認識への道を開いた。そうした中では、骨の折れる説得や煩瑣な法手続きを踏まねば先に進むことのできない国際機構は、紛争解決に際して限定的な実効性をしか有さないばかりか、最新の情報技術を駆使して機動的にテロ活動を展開する潜在的脅威の深刻化を許容する(時間稼ぎの余地を与える)点で、防衛行為の足枷ですらある。「9.11テロ」以降に打ち出されたブッシュ=ドクトリンに於いて、「単独行動主義」に加えて「先制攻撃主義」が鮮明に謳われた事実は、以上の様な国際情勢判断に起因している。アメリカは国際世論の合意形成に伴うコストを短縮することで、状況変化に対応する上での敏速柔軟な行動力(「実効性」)を獲得したが、一方で国際法的な「正当性」の欠如という代償を払うことになった。
フクヤマは、このような今世紀初頭の世界に出現した新たな脅威への対処を巡って浮上する「実効性」と「正当性」のジレンマの解決策として、「重層的多国間主義」が持つ可能性に注目する。これは現在の国連を通じてなされる一元的な問題解決アプローチを多角化し、NATOに代表される複数の多国間機構を適宜活用しながら、実効性と正当性を両立しようというものである。聊かオポチュニスティックな感を否めないが、国連に懐疑的なフクヤマにとっては、アメリカというじゃじゃ馬を馴らす装置として提案できる数少ない方法なのだろう。
アメリカの強硬的な外交政策の不具合をもたらした要因が、上述したような彼らの軍事的優越や対テロ戦遂行上の戦略的必要といった「政治的条件」に限られるならば、仮に彼らによる占領統治が現実的な問題として首尾よく運ばなかったとしても、その結果から齎される被害は大したものにはならないだろう。勿論イラクへの侵攻開始から二年にして、アメリカが数千億ドルに及ぶ戦費を費やし、約一万五千人以上の死傷者を出している事実は至極重大であるとしても、戦争行為を正当化する「イデオロギー的条件」が保証されているならば、それらの犠牲はかろうじて看過されうるのである。例えば過去の対日戦争に伴う犠牲があれだけ甚大であったにもかかわらず、「軍国ファッショ」との「正戦」に意味がなかったと回想するアメリカ人はいないだろう。
しかし、目下の閉塞状況が映し出す問題の様相がより本質的である所以は、それが只に政治的判断のミスに原因するものである以上に、彼らの信奉するイデオロギーがそれ自体内在的な破綻を来たしていることによるということであろう。その事実を裏付ける端的な証拠としてフクヤマが示してみせるように、アメリカの安全を脅かす過激な聖戦主義者の大半は、伝統的なイスラム社会の住人ではなく、世界で最も民主主義的な政治体制が発達した(これは無論アメリカ人の独りよがりな自己認識だが・・・)西欧市民社会の出身者なのである。つまり、彼らがテロに訴えてまでイスラム的な価値を実現しようとするのは、決して「古い形のイスラム教を取り戻そうとする試みではなく、近代化し、グローバル化し、多文化的になった世界という文脈の中で、自己確認する基礎となりうるような、新しい世界的教義を作り出そうとする営為」なのである。別言すれば、それは「伝統的な文化や宗教の再主張というよりは(共産主義ファシズムと同様)近代の所産なのである」。
こうした事実は、イスラム世界の閉鎖的な政治体制を民主化することが、最終的な紛争解決への道であるとする彼ら(ブッシュ政権)の基本信条(イデオロギー)に根本的な再考を迫らずには措かないだろう。世界を民主化することが、過激な聖戦主義の駆逐に何ら益するところのないばかりか、却って反動的な原理主義の台頭を招来するならば、一体何のためにアメリカは遠路はるばる中東まで赴いて無意味な流血を耐え忍んでいるというのか!正しく骨折り損の草臥れもうけという他あるまい。
フクヤマはこうしたアメリカの的外れな行動の原因の一つに、ブッシュ政権幹部のネオコンたちが、彼らの私淑して止まない開祖シュトラウスのテキストを読み違えていることを挙げている。なるほど確かにシュトラウスは、レジームとエートスの相関を重視する(如上)。しかし彼のいうレジームは「形をなして明確に表れた制度や権威構造だけを指すものではない。体制はまたその基層にある社会を形作るとともに、社会によって形作られもするのだ。人々の行動を左右する不文律は、宗教、血縁関係、共有する歴史経験に基づくが、それも体制の一部となっている」。つまり、シュトラウスのテキストの表層的な読解が、彼らをして世界の文化や宗教、社会慣習の多様性に対する慎重な配慮を怠らせ、安直な行動主義へと駆り立てた結果、終には自滅的な顛末を出来させるに到ったというのである。こうしてフクヤマは、これまでの武断的な民主化路線を反省し、アメリカは、当該国民の手による自主的な民主化の努力を背後からソフトパワーによって促進していく役回りに徹するべきであると説く。
以上フクヤマの所論を概観してきたが、全体として彼が本著で主張したいことは、現行のブッシュ政権に表れた過剰な「理念」的な性格を、動的で複雑な「現象」との間に止揚させようとするものであろう。彼の用語を使用すれば、「強硬派ウィルソン主義」から「現実主義ウィルソン主義」への弁証法的発展、これである。「歴史の終わり」を展望するヘーゲリアン、フクヤマの面目躍如たるものがあるではないか。
歴史は終末に向かって方向付けられている。ただそこに到る道のりは険しい。フクヤマの発するメッセージは、複数の専制国家(?)をその内部に抱え、軍事的緊張の度をいや増す北東アジアのメンバーたる我々日本人にとって、あまりにも示唆的であるといったら過言だろうか。