「過去に目を閉ざす者」

政治経済学部二年 佐々木哲平

今月、21日、「ヒトラーの戦争」などの著者、デービッド・アービング氏が刑期満了を経ずに釈放されるというニュースがあった。
彼はオーストリアで行った講演でホロコーストを否定した、というのが逮捕理由だそうだ。
よく知られていることではあるが、現在のドイツやオーストリアではナチスに関すること、ナチスを肯定する言動はタブーとされ、法的な罰則も用意されている。この事例で言えば、オーストリアホロコーストを否定すると最高で禁固10年の刑に処せられるそうだ。
無論、ハーゲンクロイツを街中で掲げるなどもってのほかであるし、最近のニュースでは反ナチのポスターであってもカギ十字が書いてあってナチスの宣伝につながる、などとして販売停止となったとも聞く。法的なものだけではなく世論としても、例えば反ユダヤ活動監視団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は「恐ろしい決定」などと激しく批判している。

「過去に目を閉ざすものは、現在に対しても盲目である。」
ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領が述べた有名な一文である。
歴史の上でしか生きられない我々にとってこれは至極真っ当なことだろう。だが、ナチス擁護論に対する批判としてこの言葉を持ち出し、「ナチスは絶対の悪である」「ヒトラーは絶対の悪である」と断言して擁護論そのものを封殺してしまうのはいかがなものだろうか。
彼らは確かに一般的に言われる「悪事」を行ったことに間違いは無いだろう。
しかし、彼らのすべてが「悪」だったと果たして断言できるのだろうか。
その時代を生きたわけでもなく、その場に立ち会ったわけでもない我々が彼らを「悪」と決めつけることができるのであろうか。
大いに議論を交わした結果やはり悪だったということはできるかもしれないが、それに関する議論すら許さずに悪だと決めつけることがあってよいのだろうか。

確かにヒトラーナチスのみを「悪」と断定してしまえば物事はすんなりと片付く。すべての責任を彼らに押し付ければ、ほかの人間は全員、彼らによる犠牲者だという構図が生まれる。その構図を維持する限り誰も責任を問われはしないし、悪い言い方をすれば偽善者ぶることも可能である。
だが、これは歴史を正しく捉えようとする態度なのであろうか。

「被害者とばかり見なされていたポーランド市民も積極的にホロコーストに加担していた」「ユダヤ人の嫌悪自体はナチス以前から存在していた、ナチスはそれを体現したに過ぎない」「ホロコーストの実態が過大視されている」・・・疑義自体いくらでも呈すことは可能である。
例えばアメリカの大量生産主義、大量消費主義の代名詞とされるフォーディズムという言葉であるが、フォーディズムのもう一つの側面として反ユダヤがあったことをご存知だろうか。
労働者(実際に汗水流している人)に与えられるべき対価というものを重視していた創業者からしてみれば、大恐慌時代にカネを転がして巨万の富を得ていたとされていたユダヤ人富豪は目の敵であった。ナチスの反ユダヤ思想にもこの「フォーディズム」の影響が少なからずあったように、反ユダヤ自体は当時の欧米社会では当たり前のことだった。
それらの事実を否定し続けることが「過去に目を開くこと」なのであろうか。

誰もが言うことではあるが、勿論こう書く自分も大量虐殺や戦争など反対であるし避けるべきだと考えている。だが議論そのものを封殺してしまうこととそれは位相が異なる。

歴史は解釈次第でどうとでも捉えることはできるものであるし、自分たちが史実だと思っていたことが実は偽りであったなどということは枚挙にいとまが無い。勿論のこと、自分が史実だと思っている何らかの歴史もまた、誰かによって編修され、或いは改竄された偽りの歴史なのかもしれない。だからこそ歴史に対しては常に盲目的にならぬような努力が必要なのである。

「過去に目を閉ざすものは、現在に対しても盲目である」