Contents for Sending Values  共に在る「世界」 第二弾(上):現代にいたる意識の変化①

政治経済学部二年 佐々木哲平



コンテンツ第一弾で述べたような現代に至る人々の意識の変化とはいかなるものであろうか。
日本はこれまでの間、近代化の道をひたすら進み続け、21世紀の現代には社会がかなりの程度で成熟化したと言われる。ここではこれまでの「近代化」の経緯がいかにしていわゆる社会の成熟化、そして個々人の意識の変化をもたらしたのか考察したい。

近代化と二つの合理性

マックス・ヴェーバーは近代化の課程に「魔術からの解放」を見出した。彼の言う魔術とは宗教的な規範意識のことであり、近代の合理主義が、合理的な根拠を持たない、そして時に合理化に反する伝統的な価値(魔術)を批判し相対化させていったのである。これによって近代以降の人々は伝統・宗教といったものにとらわれず、各々の欲望に対して自由で合理的に行動することが可能となったのである。
しかしながら、この「魔術からの解放」には手放しに喜ぶことができない一面もある。それはこの過程によって失われた宗教的意識、つまるところの価値合理性である。この価値合理性とは近代の合理主義(経済合理性)とは根本的に違うものである。
 A、 経済合理性を追求することとはすなわち「自分が最も高い便益を得るにはどうすればよいのか」という思考法であり、感覚的には「苦痛の最小化」「快楽の最大化」に努め、物質的・経済的には「利潤の最大化」「損失の最小化」を目指すものである。
B、 価値合理性はというと経済合理性のような損得勘定ではなく、判断基準は「善悪」である。何がよくて何が悪いのか、何をすべきで何をすべきでないのか、この思考が価値合理性なのである。この価値合理性の喪失・希薄化が近代化の悪しき側面なのである。

価値合理性の希薄化

では、価値合理性の希薄化のどこが悪いのであろうか。私はこれについて大きく二点に分かれると考えている。一つは規範意識の喪失であり、もう一つは世界に対する意味付与の不可能化である。
1、 前者はこれまで社会を形成してきた様々な規範(善悪)が相対化してしまうことによって社会がアノミー化してしまうということである。これまで皆が共有していた善悪が相対化されることによって社会のルールを守る意識がなくなり、他者を尊重できなくなってしまう。一般に言われる迷惑行為や犯罪はこの種のものであろう。
2、 後者は前者ほど表面的なものではない。これまであった価値合理性は各人に世界認識を付与する役割を果たしてきた。善悪の基準が各々の中に内面化することでいわゆる「道徳」が形成され、「これをすることにはこういう意味がある」「これにはこんなに徳のある(善い)ことだ」と感じることが可能となる。働くことは誰にとっても面倒くさいことであるし非常にくたびれることである。しかしながら「働くことはよいことだ」「働かないことはいけないことだ」という価値合理性があるからこそ金銭だけのためではなく積極的に働こうというインセンティブとなるのである。

ニヒリズム

ここで私は特に後者、世界に対する意味付与の不可能化に注目したい。
これは現代の社会病理なるものと極めて大きなかかわりを持っている。例えばニートは働くことや学ぶことに対してことさら大きな意味を見出すことができない人々のことであると考えられるし、引きこもりは「社会」そのものや対人関係に意味を見出すことができない人々である。新興宗教に走ってしまうこともこのような意味を見出せない世界に何らかの意味を付与したいという理由が考えられるし、それに耐え切れない人々がいわゆる「アノミー型自殺」に陥ってしまうのである。これらがいわゆる受動的なニヒリズムである。
一方で能動的なニヒリズムというものも存在する。オウム信者が現代の欺瞞に満ちた社会にテロを仕掛けたり、少年が「バモイドオキ神」に従って「透明な存在」に意味を見出すべく通り魔事件を起こしたりするのがこれにあたる。

結局のところ意味の無い社会に意味を見出そうとする能動的なニヒリズムも、無意味にただひたすら耐えようという受動的ニヒリズムも、よい結果をもたらすわけではないようである。ニーチェは見せかけの価値にすがりつく人々を「畜群」、見せ掛けの価値を付与する人間を「羊飼い」と呼んで批判し、神が死んだ世界のなかで自ら積極的に意味を見出す人間を「超人」と呼んで賛美した。しかしながらそれでは人々は意味や真理を蔓延する欺瞞や虚構としてこれと戦わねばならないし、そうした中でも誰しもが超人になれるわけではない。勿論のことそれではアノミー化を促進するだけである。
こうした状況を打破するためには、自然に「意味」を付与する環境を作り出さねばならないのである。

 次のコンテンツ第二弾(下)では、価値合理性や意味付与の機能を実際にどこに求めるべきか論じていく。