「全知全能という逃避」


政治経済学部1年 斉藤大地


 私の住んでいる寮では必ずといっていいほどいつもどこかの部屋でゲーム大会が行われている。それも最新ゲームからファミリーコンピュータまでそろっている。
 私も先日つい懐かしさにかられてスーパーファミコンを借りて、なつかしのRPGをプレイしてみた。
 なぜか朝から晩まで何度やっても飽きなかった小学生の頃と違ってすぐに飽きが来てコントローラを放り出してしまった。
 これが大人になったことであろうか、と思って理由を考えてみると、暇な時間がそれほど多くなかったことからパソコンを傍らに置いて攻略法を調べながらプレイしていた。答えのわかっている問題を解くのは面白いはずもないわけである。
 昔から攻略本というものはあったが、近年はすぐに攻略法がネットで情報交換され、瞬く間に攻略サイトが完成し、その後のプレイヤーはその他人の作り上げた情報によってゲームを攻略していく構図が出来ている。
 しかもドラゴンクエストファイナルファンタジーといった一つのストーリーを追体験していく単一のエンディング=目的に向かって進んでいくゲームであるならばその課程をより効率的にやってしまいたい人間がいるというのは理解できる。

 だが、「自由度の高いゲーム」ともてはやされている「マルチエンディング(プレイヤーの行動で結末の変わるもの)RPGや「シミュレーションゲーム」に対しても攻略情報をすぐに見てしまう。つまり自由、しかもリセットすらこと許される状況でありながら、あらかじめわかっている成功の道筋をたどろうとしているのである。そしてさらに言えば、ネットにはゲームのプログラムを改ざんするためのチートコードがあふれていて、装備やパラメータを最大にしてあるセーブデータが販売されているなど、それを使用しその道筋をたどるための努力(レベル上げ)などをも拒否してしまう。
 
その原因を私はプレイヤーがゲームを一つのメディアとしてではなく、自分の思い通りになる世界として捉えてしまうことにあるのではないか。だからゲームの世界においての試行錯誤を嫌悪してしまう。確かにゲームはプレイヤーがそう望めばその願いをかなえてくれるものになりうる。攻略情報を使えばその世界においてわからないことはなくなり、ゲーム世界において全知になれる。そしてプログラムの改変や改造セーブデータを使用すればゲーム世界において全能になれる。そしてその全知全能を駆使する世界での「自由度」が高いほうがより思い通りになることを楽しむことが出来る。
 しかし、全知全能になった者とってその世界は退屈ではないのであろうか。
 小学生のころ、ゲームが楽しかったのは次にどんな敵が出てくるのか、どんな展開が待っているのかわからなかった期待と不安、そして試行錯誤してクリアした達成感ではなかったか。
 それは現実でも同じであるのだが、思い通りにいかないからこそ成功はうれしく、世界は面白いのであって、決してすべて自分の思い通りにいく状況で成功したとしてもうれしくもなんともなく、そんな世界はつまらないのである。

 私はゲームというメディアも本や映画やテレビといった他のメディアとの大きな違いはなく、同じようにその中に作者の創った世界があると考えている。 そしてその世界には作者の哲学や思考がつまっている。そして作品を読んだり鑑賞したりすることは、(本についてはよく言われることではあるが)作者との対話・対峙なのではないか。私はゲームに関してもその作者と真っ向から対話すべきだと考えるし、攻略情報を見たり、その世界そのものを思い通りになるようにしてプレイしても何も得ることはない、と言いたい。

 それは、その世界との対峙の「逃げ」でしかないのだから。