今、孔子を読み直す

社会科学部2年 柴田 篤志

論語分析哲学的斜め読み

政治における個人主義全体主義の対立が言われて久しい。現在においても様々なイデオロギーが生み出されるが、基本的にそれは、個人か集団かという二者択一に単純化されてしまっているのではないだろうか。最近姦しい「公」という概念を巡る議論をとっても、それは、「今までの日本は行過ぎた個人主義であり、これからの個人はいま少し全体を意識した責任ある人間でなくてはならない」という意見や反対に「全体を意識するなどということはかつての封建的な暗黒時代を礼賛することでしかない」という意見に解釈されてしまうのではないだろうか

思うに上述の問題は、近代社会の特徴的フレームとしての個人の自由と秩序というものが両立するのかという問いに答えることでしかないと考える。
この問いに対して私は個人でも社会でもない両者の関係のあり方自体の中で統合された新たな視点の創出として解消されるべき問いなのではないかと思われる。
 こうした考えの中で示唆に富むものが孔子の提唱する「礼」概念とそれに基づく「儀礼」概念であると思う。ゆえに今回はこれらの概念について同様にわれわれの日常を再考察することを目的とする欧米の分析哲学の方法を参考に考察する中で明らかにしていくことが上述の問いに新たな形で答える上で有効であると考える。
この点について重要な指摘を行っているのが哲学者のハーバート・フィンガレットである。彼によると、「論語」における「礼」概念は超現実的な事象を指すのではなく、社会慣行の総体を語る際の媒介概念であり、この言葉やそのイメージの用い方にこそ孔子の教えの特徴がある。
それは、「礼」に則って行動する能力、「礼」に従おうとする意思は、人間にのみ属し、望みうる限り最も完全な徳または力に欠くべからざるものであるということである。ここで孔子が行っていることには、二つのことが認められる。一つは彼が伝統と慣習の総体に注意を喚起していることであり、もうひとつは、聖なる儀礼・神聖なる儀式の譬喩によってこれらすべてを眺めることを求めていることである。
具体的に孔子が目指す高貴な人間とは、社会的な形態と未だ社会化されていない個人的な存在を融合し、人間にのみ許された徳を実現することに携わるものである。そのため、人が真に人間的になるには、自らの原初的衝動を礼にあったものにしなければならない。それゆえ、「礼」は、人間の衝動の成就であり、その文明的な表現であるという。         
つまり孔子は「礼」という概念は非人間的な形式主義ではなく、さまざまに変化する人対人の関係を人間に即して特殊化した形態であるという啓示的なイメージを与えたのである。
つまりここで孔子が想定している「礼」はP・ブルデューディスタンクシオンの概念が指摘しているような日常の挨拶や約束、契約、弁解、賛辞、懇願などの日常的行為に幅広く見られる無意識的な行為の持つ重要な意味と同等のものであるように思われる。
故に、この「礼」は複雑であるとともに、意識できないほど身近な動作が、人間相互の関係の中でもっとも人間的な特徴となっているという点が重要なのである。
なぜなら互いを、操縦し、脅迫し強制し誘導すべき物理対象、単なる動物、もしくは人間以下の存在として扱うのではない限り、われわれは人間的である以外はない。「礼」のイメージによって以上の儀式を眺めれば、神聖なる儀式とは、文明的・日常的な他者との交際を高度に強化・洗練したものであるということができる。
またこうした点について現代哲学の言語分析によれば、儀礼的な言葉は、行為の報告や行為を喚起する刺激であるよりも、それ自体が決定的な行為である「行為遂行的発言」と同様の意味を持つということも言える。
故に以上の点から、生活の中で我々がとりわけ人間的な部分を生きているのは、儀式によってであるということが指摘できる。儀式的行為は、人間にとって主要な、ほかのものに還元しえない出来事である。言語は、そこに根幹を持つ慣習的実践を離れては理解できない。慣習的実践はそれを定義し、その一部でもある言語を離れて理解し得ない。言葉と運動は、具体的な儀式的行為を捨象したものに過ぎないのである。
そのため、儀礼を完成させることはいやおうなく、社会形態の調和と美とをもたらし、人と人との本来あるべき究極的な交流を促す。またそれだけにとどまらず、自分と同じ尊厳を持ち、「礼」にともに参与するものとして他者を遇することで、儀式の参加者は自らの意図を達成するうちに、道徳的完成にも到達する。さらに、儀式に応じて行為するのは、他者に対して完全に開かれた態度をとることでもある。儀式とは公のものであり、分かちあうものであり、透明なものであるからということができる。逆に、儀式に則らなければ、秘密主義的狡猾さが横行するか、専制的な強制があるのみである。自らと結局は等しい存在である他者とともに、この美しく尊厳があり共有され開かれた行為に参加することで人は自らを認識するというが可能になる。
以上のように孔子が明らかにしようとしたことは、現在の分析哲学社会学が明らかにしている、人間の日常の行為に内在する権力関係や慣習の重要性であり、またその意味の特殊性であるということがいえる。しかし、孔子の思想の核心はこうした日常行為の持つ構造を明らかにすることではなく、この人間の関係性が現実化する瞬間を意識化することで今まで誰も着目しえなかった人間の関係から人間のあり方という個人にも社会にも帰着しない視点を確立したことに意味があるのではないだろうか。故にこの「礼」を目指す人間のあり方の中にこそ、個人か社会かという二者択一の道を打破し、新たな人間の行き方を指し示す可能性があるのではないかということができる。この点において孔子の思想は現代においても、あるいは現代だからこそ有効性を持つのではないかと思う。