コラム 現代歴史哲学的考〜フランシス=フクヤマ「歴史の終わり」を通して観る世界の今後

                         早稲田大学三年 折本龍則
     
かつて古代ギリシャの哲人は、歴史の循環を説いた。アリストテレス然り、ポリビオス然り、彼らは永劫回帰する統治形態の在り方に、人類社会の普遍的な歴史法則を見たのである。抑圧的な寡頭専制を打ち破る躍進のエネルギーが、民主的な共和政体を実現するも、やがて民主主義は享楽と物欲の支配する衆愚政治へと堕落し、迷走する。無気力と諦念の吹き溜まりに沈滞した民主主義は、やがてパンとサーカスによって民衆をたぶらかすデマゴーグの野心に翻弄され、内部から音を立てて瓦解していくのである。ローマ帝国の盛衰は、その様な歴史法則を実証する格好の具体例として挙げられるし、それは近代以降の人類に於いても妥当する。特にヴァィマール体制の失敗は、人類が人間理性のもたらす恵沢によって不断の前進を遂げているといった希望的観測を無残にも打ち砕いた。シュペングラーやトインビーが物語る人類の歴史を貫く縦糸もまた、このような悲観的な歴史意識である。
しかし、91年に終結した東西冷戦は、これまで見られたペシミズムの歴史意識を払拭する一人の歴史家を生んだ。


フランシス=フクヤマその人である。彼は、その著「歴史の終わり」のなかで、コジェーブのヘーゲル読解に依拠しながら、人類社会が戦争と平和の紆余曲折を経ながら到達しつつある理想郷の存在を説いた。それは、自由主義的民主主義という理念によって新たに一体化される世界の最終形態である。
フクヤマは、かつて人類の歴史を織り成した、市民主義革命や、度重なる戦争、そして権威主義的な全体主義の運動といった史実の深奥に通底した、人間の普遍的属性を見出す。すなわちそれは、人類の歴史を前進させてきた中核の原動力ともいうべき精神である。彼はそれが、社会的な「認知」を獲得するために生命を賭して闘おうとする人間の「優越願望」であるとした上で、その様な心理の作用を、プラトンが『国家』において提示した、「気概」の概念に引き付けて把握している。つまり、奴隷的な隷属を回避するためになされる闘争は、人間の生物的な欲求や経済的な損得勘定によっては説明することが出来ない。また同時に、単なる生命維持を越えた崇高な価値や正義に殉じる英姿が、人間の存在に尊厳を与える。
かつてニーチェが英雄倫理の中に発現するとした「力への意思」を彷彿とさせるような、人間のこの様な属性は、一方で市民主義革命のような歴史的前進を生み出したものの、他方で排他的な自民族中心主義や情緒的なナショナリズムに代表されるような、全体主義権威主義体制への転落をも招来した。特に近代が発明した自由主義や民主主義は、その前提が一切の価値に対する寛容と中立によって支えられているため、特異的な価値や世界観の絶対化を迫る(つまりは自由主義的民主主義を否定する)価値や世界観の要請と全面的に衝突せざるをえない。これがまさに近代が蹉跌を来たす断崖絶壁として眼前に立ちはだかってきたのである。社会心理学者であるE.フロムの分析(『自由からの逃走』)が示すように、近代的理念が付帯するこのような二面性は、我々を常に転落への危険に晒しているといえよう。
フクヤマもまたこのような危険性を深く自覚する識者の一人であるが、彼はそれでも、先の大戦が人類に与えた教訓は、我々を安直な闘争心に駆り立てる危険性を緩和したと説く。組織的な殺戮や機械化された戦闘は、嘗ての戦争を彩った英雄的な戦死はおろか、勇敢な戦士の尊厳を、淡々と事務的に処理される統計的な数値に変えてしまった。また大規模化、ハイテク化する装備体系は、一国の主権はおろか、世界人類の存続すら覚束なくさせている。戦争と平和の長期波動は、時を経るごとにその振幅を拡大しながら、愈々最後の防波堤を決壊させつつある。
 その意味でフクヤマは、血塗られた「優越願望」間の相克を止揚した先に立ち現れる普遍的な相互認知を仮想するコジェーブのヘーゲル解釈に対して、妥協的・消極的な「落とし所」として充足される「対等願望」の均衡的制度として自由主義的民主主義を想定する。つまり、自由主義的民主主義といった統治システムは、内部に様々な激発性の不安定要因を抱えながら、薄氷を踏むような歩行を続けざるをえない定めにあるというのである。巷間でよくイメージされるような、フクヤマの近代的理念に対する手放しの礼賛や、歴史的進歩に対する楽観は、其処にはない。実際彼は、自由主義的民主主義が陥りがちな陰惨な価値相対主義ニヒリズム)に対する最大の批判者なのだ。そして、だからこそ蒙昧な「歴史主義」を克服し、一方向的な普遍的歴史法則を打ち立てようとするのであろう。
 さて、これまでF.フクヤマの著作を簡単に概観してきたが、自由主義的民主主義の理念に内在するこの様な危険性を顕在化させないために、我々がなしうることは何であろうか。
結論を先取りして言えば、それはそれ自体のみでは極めて抽象的な概念に過ぎない自由主義的民主主義の「具体的な現れ」に際して、それが帯びるであろう多彩な地方的特色と宗教・文化的親和性を尊重することである。というのも、自由主義的民主主義は、純化すればするほど不安定化せざるをえない理念だからである。(経済的)自由主義純化すれば其処に残るのは剥き出しの「市場原理主義」であり、不完全情報を初めとした経済主体の「可謬性」が、商品価格の乱高下と市場そのものの不安定化を出来する。またヴェバーの系譜に連なるリッツァー等の指摘を待つまでもなく、経済社会システムの「マクドナルド化」が生み出す個人の「規格化」や「構造化」は、彼を「末人」(ニーチェ)の様な無気力と「意味喪失」に陥れるであろう。
 それに加えて、民主主義から政治文化や共通言語といった、特異的文化信念を取り除いた先にあるのは、民主的な合意の不能と国民的統合の失敗である。かつてソシュールが言語を「恣意性の体系」といった言葉で表したことに象徴されるように、民族的・歴史生成的文化や、その表徴としての言語には、独自の「意味世界」が「構造的に」内在している。つまり、文化は人情の微妙な機微を捉えた意思疎通や、的確な情報伝達の媒介をなすべき有効な潤滑油の機能を果たすのであって、これを「捨象」すると却って民主的対話による合意形成が困難になるのである。そしてこの様な合意の不能に際会して顔を覗かせる漆黒の影こそが、「ニヒリズム」と言う名の癌に他ならない。
 以上、「歴史の終わり」が持つ今日的意義を検証してきた。ここでは実際に、現在のIMFや米国政府が展開する世界政策を瞥見した際に垣間見える、「近代主義的」思考様式の存在を指摘してみたく思う。
 ここでいう「近代主義」とは、主客二元論によって支えられる、進歩主義的な「普遍主義」の世界観のことである。理性的存在としての<主観>が、啓蒙主義的なプログラムを遂行することによって、普遍的な<客観>存在を認識することが可能であるとする「文明」信仰。そこでは、目下の多様な世界を特徴付ける民族性や政治文化、また独自の宗教生活や風俗慣習は、一様に封建的な前近代性の残滓として「野蛮」視される。換言すれば自由主義的民主主義と混交した歴史生成的要素が、不純物として取り除かれる訳である。
 具体的な例証としては、97年に東アジア経済を急襲した通貨危機に際して、IMFが採った政策的対応の誤りが挙げられる。当初IMFの診断では、危機の主要な発生要因は、東アジア各国の社会経済システムを特徴付ける、財閥企業の不透明なビジネス慣行や官民の緊密な癒着体質といった「構造」に求められた。東アジア諸国の社会経済システムに内在する「構造」は、目下の正統派経済学の志向する「完全自由競争」と、その仮定によって演繹される「パレート最適」を阻害する「旧弊」と認識されたのである。そこで、1000億円に及ぶ膨大な経済援助と引き換えに彼らが被災国に突きつけたのが、過酷な「構造改革」を要請する融資条件であった。しかし、実際的に危機の真因は、急激な短期資本の移動による「流動性リスク」であったことが諸所の研究によって判明している。IMFの誤診と、それによって東アジア諸国が外貨欲しさに実施したデフレ政策は、むしろ各国の経済不況を悪化させ、事態の回復を遅延させた。IMFが処方した一連の政策の背後に見え隠れするのは、アジアの特異性を、頑迷な権威主義体質として一刀両断する「オリエンタリズム」の思考様式ではないか。
 均質で標準化された市場の普遍的価値に到達する過程こそが、人類の進歩であり理性の勝利であるとする近代主義的な発想は、正しくフクヤマが依拠したヘーゲル弁証法的な進歩史観そのものに他ならないが、この様な人間の「無謬性」に寄せる過大なまでの信頼は、多分に「主知主義」的な欺瞞と傲慢の感を匂わせる。そしてその様な、規制を排した節度なき自由競争が現出する社会に持続的な安定性はないだろう。
 グローバルエコノミーが世界を新たに一体化しつつある今日、幸ある「歴史の終わり」を達成する上で、我々人類が取り組まねばならない課題は未だ山積しているといえよう。